2025年2月3日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その59 -明徳寺城-

この記事は忍者豆知識その59です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。

・明徳寺城
明徳寺城(めいとくじじょう)は、群馬県利根郡みなかみ町(旧月夜野町)にかつて存在した中世の山城です。この城は戦国時代に築かれたと考えられ、主に守備や防衛のための拠点として利用されました。現在、城跡にはその名残が残っており、歴史や地域の文化を物語る重要な遺構の一つとされています。
この地は北条氏の領土とされていました。真田氏は北条氏を破り、北条氏の沼田城攻めの拠点にしました。
赤谷川と利根川の合流地点を見下ろす高台にあり、防御の利便性が高い地形を活かして築かれました。

築城時期は戦国時代(詳細な年代や築城主は不明)とされています。
城主は詳細な記録はありませんが、付近を治めた土豪や地方領主の関与が推測されます。
現在は城跡のみが残り、標高の高い場所に登れば周囲の景色が楽しめます。
・歴史と背景
明徳寺城は、戦国時代の上杉氏や北条氏の勢力争いが影響を与えたと考えられます。この地域は、北関東の軍事拠点や交通の要所であったため、多くの争乱に巻き込まれた可能性があります。

その後、城は廃城となり、現在は訪れる人々に地域の歴史の一端を伝えています。

・アクセス
みなかみ町の明徳寺地区にあるため、訪問には徒歩または車が便利です。ただし、案内表示は少ないので、地図や地域の案内所での情報確認をおすすめします。

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2025年1月19日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その58 -猿ヶ京城-

この記事は忍者豆知識その58です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・猿ヶ京城
猿ヶ京城(さるがきょうじょう)は、群馬県利根郡みなかみ町(旧新治郡猿ヶ京村)に存在したとされる城跡です。
元は宮野城という名前で、城の名前の由来は上杉謙信の逸話が理由だとされています。
真田昌幸の配下・矢沢頼綱がこの城を攻めて栗林肥前守を降したといわれています。

・猿ヶ京城の特徴や歴史
・立地
猿ヶ京温泉周辺に存在したとされています。この地域は、越後(現在の新潟県)と上州(群馬県)を結ぶ交通の要所にあり、戦略的に重要な場所でした。

・規模
規模は比較的小さく、砦のような役割を果たしたと考えられます。この種の山城は、地域の領主やその配下の武将が築き、一時的な防衛拠点や見張り台として使われることが多かったです。
・現在の状況
遺構がほとんど残っていないため、現地で城郭を確認するのは難しいです。ただし、猿ヶ京の地名や周辺の地形から、城が存在したことを想像することはできます。
・猿ヶ京温泉との関係
猿ヶ京温泉は、この地域の重要な名所であり、江戸時代には三国街道の宿場町としても栄えました。猿ヶ京城は、その歴史の一部として温泉と結びついていたかもしれません。

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2025年1月18日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その57 -尻高城-

この記事は忍者豆知識その57です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。

・尻高城
尻高城(しったかじょう)は、群馬県吾妻郡高山村尻高に位置する山城で、別名を要害城や並木城とも呼ばれています。築城時期は明確ではありませんが、応永8年(1401年)に白井長尾氏の家臣によって築かれたと伝えられています。
城主である尻高氏は、白井城主・白井長尾重国の三男、重儀を祖とし、応永10年(1403年)に尻高に入部して以降、代々この地を治めました。
永禄年間(1558年~1570年)には、上杉謙信の関東侵攻に際し、上杉氏に臣従した沼田衆として尻高左馬助の名が記録されています。
その後、武田氏の勢力が西上野に及ぶと尻高氏もこれに従います。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、真田氏がこのお城を攻略した際、真田の忍び唐沢玄蕃がこのお城に火を放つことに成功し、その後真田氏(昌幸)がこのお城を攻め落としました。
尻高城は標高約700メートルの「ゆうげい」と呼ばれる山に築かれており、現在は登山道が整備されています。城の遺構としては、曲輪、堀切、竪堀などが確認できます。主郭は山頂部に位置し、周囲には深さ約10メートルの堀が巡らされています。このような大規模な土木工事から、当時の尻高城が相当な勢力によって築かれたことが伺えます。
登城口は南麓の道路沿いにあり、入口には道標が設置されていますが、駐車スペースはありません。その南側の道路沿いには案内板が設置されています。
また、道の駅「中山盆地」(群馬県高山村)において、尻高城の御城印が書籍の特典付録として販売されています。
尻高城は歴史的な背景と自然の景観を併せ持つ場所であり、歴史愛好家やハイキングを楽しむ方々にとって魅力的なスポットとなっています。

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2024年12月20日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その56 -中山城-

この記事は忍者豆知識その56です。ここでは真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・中山城
中山城は、群馬県吾妻郡高山村に存在した中世の山城です。戦国時代における地域の防衛拠点、あるいは見張り台としての役割を担っていたと考えられています。

・立地
中山城は、高山村の中山地区の丘陵地に築かれました。
吾妻川流域や周辺を一望できる標高の高い場所に位置しています。
この地域は古くから上州(群馬県)と信州(長野県)を結ぶ交通の要衝であり、城の位置はその戦略的な重要性を物語っています。
真田氏の忍び、唐沢玄蕃が中山城に侵入し金の馬鎧を盗んで持ち帰るなどの活躍したエピソードがあります。

・歴史背景
・築城時期と目的

中山城は、戦国時代に地元豪族や地域の領主によって築かれたとされています。
吾妻地方では戦国時代を通じて北条氏、武田氏、上杉氏の影響が入り乱れており、中山城もこれらの大名間の戦いに巻き込まれた可能性があります。
・衰退
戦国時代末期または江戸時代初期には、その役割を終え、廃城となったと考えられています。
・城の構造
中山城は山城であり、自然地形を巧みに利用した防御の工夫が見られます。

・特徴的な構造

主郭(本丸): 山の最上部に位置する中心部。
堀切: 尾根を分断して敵の侵入を防ぐための防御溝が確認されています。
土塁: 敵の攻撃を防ぐための土製の防壁。
虎口: 城への出入り口
・残された遺構
中山城跡には堀切や土塁、郭跡などが部分的に残っているとされますが、自然による埋没や樹木の増加により、遺構はややわかりにくくなっている箇所もあるとされています。
・高山村周辺との関連性
吾妻地方の他の城跡(岩櫃城や小川城)と同様に、この地域の戦国時代の情勢や、地域防衛のための役割を考える上で重要です。
高山村自体は山あいの静かな地域で、こうした歴史的な城跡を通じて、戦国時代の村の役割を考える手がかりとなっています。
・現在の中山城跡
中山城跡は観光地として整備されているわけではなく、地元の郷土史として記録されています。
城跡にアクセスする場合は、詳細な位置を地元資料で確認するか、村の観光情報を調べる必要があります。
・アクセス
中山交差点から国道145号に西に行くと城跡があります。
徒歩や軽登山でアクセスする可能性があるため、登山靴や長袖長ズボンを着用することをおすすめします。
道の駅中山盆地が近くにあるので、そこから散策してもいいでしょう。
高山村の自然を楽しみながら、戦国時代の遺跡に触れる良い機会になるでしょう。

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2024年12月16日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その55 -雁ヶ沢城-

この記事は忍者豆知識その55です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・雁ヶ沢城
雁ヶ沢城(がんがさわじょう)は、群馬県吾妻郡東吾妻町松谷にかつて存在した中世の山城です。
松谷という地域名は地名の横谷と松尾の名前からとって松谷と呼ばれています。
真田氏の岩櫃城攻略後に築かれたとされます。
真田昌幸に仕えた横谷左近は真田忍者であると言われ、真田氏(昌幸)が上田城に帰還するのを助けたと言われています。
・位置と概要
雁ヶ沢城は、松谷地区の雁ヶ沢に築かれた山城で、周囲を見渡せる標高の高い場所に位置していました。
地形的に自然の防御力が高く、山城の典型的な特徴である尾根や急峻な地形を利用した造りだったと考えられます。
戦国時代に防衛拠点または見張りのために使われた可能性があります。


・築城の背景
吾妻地域では戦国時代、武田氏や上杉氏の勢力争いが繰り広げられていました。雁ヶ沢城もこの地域の防御や戦略における重要な一環として使用された可能性があります。
この城は小規模な支城として機能していたと見られており、横谷氏一族が居城としました。
・城の構造
山城のため、主郭(本丸)や、ささ曲輪(くるわ)が尾根沿いに配置されていた可能性があります。
堀切や土塁などが設置され、敵の進入を防ぐ構造だったと考えられますが、現在は遺構のほとんどが失われているか、自然地形に埋もれてしまっています。また、雁ヶ沢城の山麓に横谷氏がいたと言われている横谷氏館があります。

・現在の状況
雁ヶ沢城の遺構はあまり残されていません。付近の山林に土塁や堀の痕跡があるかもしれませんが、特に顕著な遺跡は発見されていない模様です。

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2024年12月14日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その54 -横尾八幡城-

この記事は忍者豆知識その54です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。



・横尾八幡城
中之条町の横尾八幡城は、群馬県吾妻郡中之条町横尾地区に位置する中世の山城です。この城は、戦国時代に尻高三河守によって築かれたとされ、地域の有力な豪族が守っていたと考えられています。主に防衛や地域支配の拠点として機能しました。

・特徴
・立地
横尾八幡城は標高の高い丘陵地に築かれており、周囲を見渡すことができる戦略的な位置にあります。この地形を利用して外敵の侵入を監視し、攻撃に備えていました。
・構造
城郭は山城特有の簡素な造りで、土塁や堀切が現地に残されています。これらの防御施設は、敵の侵入を困難にする役割を果たしていました。

・歴史
横尾八幡城の築城や城主に関する具体的な記録は少ないものの、戦国時代の吾妻地域では、上杉氏や真田氏などの勢力が争いを繰り広げており、その一環としてこの城が利用されたと考えられます。
真田氏(真田昌幸)が吾妻に進軍したときに、このお城の城代として富澤豊前守を配置しました。
お城には鉄砲隊や弓、槍を用いた兵士が常駐していたと言われています。
山道を進んでいくと遺構のある場所に行けます。

横尾八幡城の入り口の案内板です。
横尾八幡城の案内板です。しばらく上り坂が続きますがこの坂を登っていくと遺構があります。

・現在の状況
・アクセス
国道145号線の横尾交差点から県道231号に行き、北東に進むと城跡があります。
現在、横尾八幡城跡は観光スポットや歴史散策の場所として注目されています。周囲の自然と共に、中世の城郭の名残を楽しむことができます。ただし、訪れる際は現地の地図や案内板を参考にして、安全に散策を楽しんでください。

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2024年12月9日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その53 -嵩山城-

この記事は忍者豆知識その53です。この記事は真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・嵩山城(たけやまじょう)
嵩山城(たけやまじょう)は、群馬県吾妻郡中之条町に位置する中世の山城です。戦国時代に築かれたとされ、地元の豪族や戦国大名によって使用された歴史があります。嵩山(たけやま)は標高789メートルの山で、城跡からは周囲を見渡せる絶好の眺望が楽しめます。

・歴史
築城時期: 嵩山城の正確な築城時期は不明ですが、室町時代から戦国時代にかけて利用されていたと考えられています。
役割: 吾妻川沿いに位置し、戦略的に重要な場所にあったため、交通の要衝や軍事拠点として使われました。
城主: 戦国時代には上杉氏や武田氏の勢力が交錯する地域であったため、これらの勢力によって利用されたと推測されています。
岩櫃城落城後、岩櫃城城主の斉藤憲広の息子城虎丸が逃れて池田重安の助けでここに入り、上杉氏の支援のもと、真田氏と戦いましたが永禄8年(1565年)落城し、城虎丸は自害し斎藤氏は滅亡したと言われています。

・特徴
遺構: 城跡には土塁や空堀(からぼり)などの防御施設の跡が残っています。また、城郭の構造から山城特有の防衛技術を見ることができます。
景観: 嵩山城の跡地からは、中之条町の街並みや周囲の山々を一望することができ、観光地としても知られています。
・観光情報
アクセス: 嵩山城跡までは中之条町の中心部から車でアクセス可能です。登山道を利用して城跡までハイキング感覚で訪れることができます。
注意: 登山道には急な箇所もあるため、訪れる際は適切な装備を用意することが推奨されます。
嵩山城は、戦国時代の歴史に触れながら自然を満喫できる場所として、歴史愛好家やハイキング好きにおすすめのスポットです。

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2024年12月6日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その52 -羽根尾城-

この記事は忍者豆知識その52です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・羽根尾城
羽根尾城は、現在の群馬県吾妻郡長野原町大津にあったお城です。
羽根尾城(はねおじょう)は、群馬県吾妻郡長野原町に位置する中世の山城で、戦国時代に築かれたとされます。この城は、吾妻川流域を見渡せる要地に築かれており、地域を支配する拠点として重要な役割を果たしました。以下に羽根尾城についての詳細をまとめます。

・基本情報
所在地: 群馬県吾妻郡長野原町
築城時期: 戦国時代(具体的な時期は不明)
築城者: 羽尾氏または地域の土豪によるとされています。
構造: 山城
・歴史
・戦国時代の築城
羽根尾城は吾妻地域における防衛拠点として築かれました。この地域では上杉氏、武田氏、そして真田氏が勢力争いを繰り広げ、羽根尾城もその防衛線の一環として利用されました。
・羽尾氏の関与
羽尾氏は吾妻地方の土豪で、羽根尾城を拠点に活動していたとされます。のちに真田氏に従属し、吾妻地方の一部として組み込まれました。
羽尾幸全が城主で兄弟には海野兄弟(輝幸、幸光)がいます。
海野兄弟は斎藤氏に仕えて、その後真田氏に仕えました。
羽根尾氏は真田氏に仕えていましたが、真田昌幸は部下からの讒言を受けて、海野兄弟を誅殺したといわれています。
海野兄弟のお墓は羽根尾城の山麓にあります。

・廃城
戦国時代の終焉とともに、羽根尾城もその役割を終え、廃城となりました。その後は地域の住民により部分的に利用されたものの、長い間放置されて自然に埋もれていきました。
・特徴
地形を活かした構造
羽根尾城は、吾妻川を見下ろす小高い丘陵地に築かれており、自然の地形を巧みに利用した防御に優れた山城です。
・遺構
土塁や堀切、腰曲輪(くるわ)などの遺構が一部残っていますが、現在では多くが山林に覆われています。
・関連する城
羽根尾城は、近隣の岩櫃城や丸岩城とともに、吾妻地域の真田氏の防衛ラインを形成していたと考えられます。特に羽根尾城は、吾妻川沿いの交通の要衝に位置していたため、戦略的に重要でした。

・観光情報
羽根尾城跡は、整備が進んでおらず訪問が難しい場合がありますが、周辺を散策することで戦国時代の雰囲気を感じることができます。
長野原町の観光スポットである「川原湯温泉」や「草津温泉」と合わせて訪問すると、歴史と自然の両方を楽しむことができます。
・アクセス
最寄り駅: JR吾妻線「羽根尾駅」から徒歩または車でアクセス可能。
車: 長野原町内の道路を利用し、登山口や遺構のあるエリアまで移動可能。

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2024年12月2日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その6 -岩櫃城とにんぱくの展示物-【12月2日更新】

今日は忍者豆知識その6をお届けします。今日は真田氏に関係する岩櫃城や真田忍者についてお送りします。

・忍者豆知識 岩櫃城(いわびつじょう)について
岩櫃城は、群馬県吾妻郡東吾妻町に位置する日本の中世山城です。岩櫃城は岩櫃山の中腹に作られたお城です。
戦国時代に築かれたこの城は、上杉謙信、武田信玄、そして真田氏といった名だたる戦国大名たちの争奪戦の舞台となりました。以下に岩櫃城の概要を紹介します。


岩櫃城は、鎌倉時代に築かれた説や14世紀後半に築かれたとされていますが、築城年や、築城者については諸説あると言われています。
戦国時代には、上杉謙信に従う斉藤氏と武田信玄に従う真田氏が岩櫃城を巡って争いました。その後、武田氏の配下であった真田幸隆が城主となり、真田氏の拠点の一つとして重要な役割を果たしました。
関ヶ原の戦いの後、江戸幕府の成立とともに城は廃城となりました。
岩櫃城は山の中腹に築かれた山城であり、自然の地形を活かした防御に優れた構造が特徴です。
城は幾つかの郭(曲輪)で構成されており、主要な郭である本丸、二の丸、三の丸が存在します。現在では城跡が保存されており、石垣や堀の遺構を見ることができます。
岩櫃城跡は、国の史跡に指定されており、観光地としても人気があります。特に春には桜が美しく、ハイキングコースとしても訪れる人々が多いです。
岩櫃城の歴史や構造についてさらに詳しく知りたい場合は、地元の博物館や観光案内所を訪れると良いでしょう。また、歴史書や専門書を読むことで、より深い理解を得ることができます。
岩櫃山は、群馬県吾妻郡東吾妻町にある標高802.6メートルの山で、吾妻八景の一つとして知られています。
観音山の不動堂など回れるスポットが多くあり、様々な登山コースが楽しめます。

岩櫃山平沢登山口観光案内所(別の登山口もあります)
岩櫃神社(岩櫃山の山中にあります)
出浦渕入り口
出浦渕は一つ前の写真の場所から沢をしばらく下っていた先にあります。沢は落下に十分に注意してください。
古谷登山口入り口
密岩神社
密岩神社からは岩櫃山の岩肌がよく見えます。

・忍者豆知識 横谷左近(よこやさこん)
横谷左近は、真田忍者として知られています。真田十勇士の猿飛佐助のモデルになったと言われています。
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、特に真田氏に仕えたことで知られています。
武田信玄に仕えていた真田幸隆の配下として、岩櫃城を攻略し、その守備を行いました。
横谷左近は岩櫃城の守備を担当し、城の防衛に大きく貢献しました。真田氏上州の拠点とする中で、岩櫃城の防御は非常に重要でした。真田氏に仕え様々な戦を参戦したと言われ、大阪の陣にも加わり真田幸繁と一緒に大阪城で戦ったと言われています。

・にんぱくの忍者道具の紹介
釘抜型手裏剣



全体が四角い形状で真ん中に穴が空いている手裏剣。

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2024年12月1日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その51 -丸岩城-

この記事は忍者豆知識その51です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・丸岩城
丸岩城(まるいわじょう)は、今の群馬県吾妻郡長野原町横壁にあったお城です。群馬県吾妻郡に位置する中世の山城で、戦国時代に築かれたとされています。この城は、岩櫃山の東側斜面にあり、自然の地形を活かした堅固な作りが特徴です。以下に丸岩城についての詳細をまとめました。

・基本情報
所在地: 群馬県吾妻郡長野原町
築城時期: 戦国時代
築城者: 羽尾幸全とされています。
構造: 山城
・歴史
戦国時代の真田氏の支配下
丸岩城は、真田氏の支配地域である信濃国と上野国を結ぶ重要な拠点の一つでした。岩櫃城を中心とする吾妻地域の防衛線として機能していたと考えられます。武田氏滅亡後に、侵略する北条氏に対して真田昌幸が西吾妻地域の諸将を駐屯させたとされます。

・江戸時代以降
戦乱が終息すると丸岩城は廃城となり、その後は地元住民によって部分的に利用されたものの、大部分が自然の中に埋もれました。
・特徴
・自然の地形を活用
丸岩城は、急峻な岩場や尾根筋を活用した防御に優れた山城です。敵が攻め上がるのが非常に困難な構造になっています。
・遺構
曲輪(くるわ)、本丸虎口、堀切、土塁、などが一部残っていますが、山林に覆われているため視認が難しい箇所もあります。
・観光情報
丸岩城跡は、ハイキングや登山といった形で訪れることができますが、整備状況は十分ではありません。山歩きの装備を整えて訪問することが推奨されます。
岩櫃山と合わせて訪れると、戦国時代の真田氏の防衛網を体感できます。
・アクセス
最寄り駅: JR吾妻線「長野原草津口駅」から2.3キロ
車: 周辺に駐車場がある場合もありますが、登山口までの案内板が少ない場合もあるため、事前の地図確認が必要です。

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