2024年3月3日

島原の乱と忍者

島原の乱(しまばらのらん)が起きたときに、幕府軍が鎮圧に乗り出し時も忍者がいました。

天草四郎は、江戸時代初期の肥後国(現在の熊本県)出身で、島原の乱(1637年-1638年)の指導者として知られる人物です。
天草四郎の経歴と活躍として、天草四郎は、肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市旭町)で育ち、信仰を巡る政策に不満を持つキリシタンの指導者として、島原の乱を起こしました。
島原の乱は、島原領主が領民の過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民やキリシタンの弾圧を行ったことに対する反発から発生したと言われます。
島原の乱では、キリシタンの信徒や農民らと共に幕府軍と激しい戦いを繰り広げましたが、最終的には敗北して、処刑されました。
天草四郎は、キリシタンとしての信念と、庶民の生活改善を目指す姿勢から、一部では英雄視されることもあります。
天草四郎は、後世の歌舞伎や小説、漫画などで英雄として描かれ、その活躍が伝説化されています。特に、幼少期から非凡な力を持ち、乱を指導するなど、架空の要素も多く含まれています。
天草四郎は、島原の乱を指導したキリシタン武将として、日本の歴史において重要な存在とされています。

四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちの指導者になっていたと見られています。この乱の鎮圧後、幕府はさらなる対外的な脅威を避けるため、鎖国政策を強化しました。この政策は、外国との交流を制限し、日本の国内を統制することで、幕府の権威を強化する狙いがありました。
以前は島原の乱での忍びは活躍しなかったと言われていましたが、現在では熊本藩での忍びが天草四郎館を焼き払い、秋月藩の忍びが城内に侵入し情報を伝えたなどの活躍をしたと言われています。

熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩で、石高は52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行していました。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれます。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれ、熊本藩細川家は肥後一円を領有していなく、国持ち大名(大身国持)とされました。
秋月藩(あきづきはん)は、福岡藩の支藩で、1623年(元和9年)に黒田長政の三男・黒田長興が福岡藩より5万石を分知されて立藩し、秋月黒田家が納めていました。