2024年5月1日

現在でも通じる忍術~方言編~

NINJA

現代の日本には標準語があり、標準語が通用しない地域はほとんどありません。普段話す言葉も、標準語と呼べる言葉を話す人がほとんどです。
しかし、沖縄や東北地域のなどの方言は、その土地に住んでいないと理解するのが難しいところもあります。
沖縄方言や津軽弁などを、ご年配の方々が話している様子を見ると、何を話しているのか、私はさっぱり理解できません。
現代の私たちは、分からない言葉についてインターネットで調べることができますが、戦国〜江戸時代の忍者はそうではありませんでした。

当時の忍者にとって、方言は聳え立つ壁でした。
忍者は任務を任されたら、任務地の言葉や風習を時間をかけて学びました。外から来たあやしい人間だと思われないようにするためです。
あやしい人だと感づかれたら、情報が得られません。

実際にあった、失敗例をご紹介します。

1673年の島原の乱

この時も忍者は暗躍していました。幕府軍の総大将ろして板倉重昌が派遣されましたが戦死し、
変わって老中松平信綱が赴きました。その際に甲賀者10人が同行し、
一揆軍がたてこもる原城内部の状況を探ることを命じられました。

近江国甲賀から来た陰形の者が城の中に入ろうと、毎晩忍び寄りましたが、城中の人々は「西国語」を話し、
さらにはキリスト教の文言を唱えているので理解することができませんでした。
そしてある夜、甲賀者が城内に忍び込もうとしたところを見つかってしまい、石をさんざん投げ釣られたとのことです。

甲賀者は九州弁が分からなかったので、任務に失敗してしまいました。

現代において言葉が分からず、命の危機に陥るということは、日本国内で過ごしていればほとんどないでしょう。
国内出張ならば、事前にその地域で話している方言を勉強しようと思う方は少数派なのではないでしょうか。

しかし、日本以外の国へ急遽行くことになった場合は、時間の許す限り、その国のことを調べますよね。
幸い、今の私たちにはインターネットという便利なものがあります。言語も機械翻訳に頼ることができます。
しかし、やはり現地の人々の使う言葉や慣習、仕草を覚えれば、覚えない人より、覚えた人のほうが豊富な情報を得られます。
私たちは忍者ではないので、完璧に現地に溶け込むことは必要ありませんが、できるだけその地域に馴染もうとする努力が必要ですね。
そなえあれば憂いなし、郷に入れば郷にしたがえ、の精神で乗り来ましょう!

2024年4月19日

現在でも通じる忍術~潜在能力編~

NINJA

人間には五感があり、忍術では「第六感」をも養えるとされています。人間の五感とは次の通りです。・視覚 目で見ること・聴覚 耳で聞くこと・臭覚 鼻で嗅ぐこと・味覚 舌で味わうこと・触覚 皮膚に触れる感覚
では第六感とは何でしょうか?一般的に第六感と言えば、霊が見える力、直感力など、五感以外の感覚を指すことが多いでしょう。

私が参考にしている本「忍者学研究」には忍者が考える第六感については明記されていませんが、戦国時代~江戸時代の人々は、私たち現代人のような科学的思考・常識は持っていなかったと思われます。現代人から見れば科学的根拠のない迷信のようなものを、本気で信じていた人もいたはずです。現代でも、科学が万能かと言われればそうではありませんが、私たちはそれが一番信用に値するものだと思っています。
当時の人々にとって、第六感、霊や神仏はもっと身近なものであり、五感と同じくらい第六感も大切な感覚の一つだったのでしょう。

第六感の前に、当時の忍者が五感を鍛えた方法について書いていきたいと思います。

視覚

まずは視覚の向上についてです。「明眼之法」という修行は、遠近、左右、上下、八方、周囲を見ることを繰り返し行い、目の働きを円滑にするものです。具体的なやり方については下記の通りです。


1. 目の前に立てた親指を見て、次に遠くの山を見る。
2. 指を立てた手を自分の周りに動かし、あらゆる方向に位置する指を見ることを反復する。


こうすることで、眼筋や毛様体の働きを促し、目の遠近調整機能を高めて視野を広げる効果が期待されます。現代では仮性近視の方にも効果があるそうです。


暗視能力を向上する修行もあります。「闇夜之習い」と称する様々な技術も伝えられてますが、多くは非科学的なものが多いそうです。

糸でぶら下げた穴開き銭を揺らし、穴を目で追ったり、棒を穴に通したりして胴体視力を養う修行や、頭を動かさずに障子の桟を上下左右に素早く目で追う修行もあります。温めた両手をまぶたに軽く当てて、眼球を上下左右に動かしたあと、目の周りを指で、全体を手のひらで押さえるものもあります。

※現代では決して行ってはいけない修行もあります。やっていけないと言われるとやってみたくなる方もいるのではないかと思いますが、この方法は本当に危険なのでたらないでください。危険な修行は「灯火目付け」と呼ばれる修行で、そうろくの火を長時間注視したり、白昼の太陽を見たりするものです。最悪の場合失明します。

聴覚

聴覚の向上には、針を砥石などの硬い物に落とした音を聞き取り、数を数える「小音聞き」という修行があります。最初は修行者自身で針を落とし、慣れてきたら他の者に遠くで針を落としてもらいます。この修行を極めれれば、小さな音や声から不穏な状況を察して危険を回避したり、大勢の会話から特定の人物の声を聞き取ったりできるようになります。

臭覚、味覚、触覚を鍛える修行もあります。

今回の記事はここまでです。五感を鍛えることは、現代社会でも役に立つと思います。皆さんのお役に立てれば嬉しいです。

2024年4月19日

江戸時代に徳川幕府に仕えた隠密(忍者)について

隠密(おんみつ)とは、他人に気付かれないように行動することを指します。この言葉は、主に忍者やスパイなどが用いる行動や技術を指す場合に使われます。隠密の行動には、以下のような特徴があります。
隠密の行動では、自分の存在や行動を他人に気付かれないようにするため、姿を隠すことが重要です。これには、夜間行動用の暗視ゴーグルや迷彩服などを使用することがあります。
隠密の行動では、足音や物音を立てないようにすることが求められます。歩行時には足音を消す工夫や、周囲の音に紛れるような行動が必要です。
隠密の行動では、周囲と同じような服装をすることが多いです。また、特定の服装や装飾品を避けることで、目立たなくなるよう心がけます。
隠密の行動では、情報を収集するために様々な手段を使います。これには、盗聴や盗撮、情報工作などが含まれます。


隠密の技術は、軍事作戦や情報収集、スパイ活動など様々な分野で活用されてきました。現代でも、特殊部隊や諜報機関などが隠密の技術を駆使して活動しています。
徳川幕府は、諸藩の状況を探らせるのに隠密(忍者)に偵察させていました。
江戸幕府の隠密は、忍者として知られています。彼らは幕府の情報収集や暗殺、諜報活動などを担当し、幕府の権力を支える重要な存在でした。江戸幕府の隠密は、主に以下のような活動を行っていました。
隠密は、外国からの情報や他の大名や旗本の動向など、幕府にとって重要な情報を収集していました。これにより、幕府は政策の立案や外交交渉などに活用することができました。
隠密は、幕府の拠点や重要人物の警備を担当していました。彼らは不審者の監視や侵入者の排除などを行い、幕府の安全を守る役割を果たしていました。
隠密は、将軍や老中から命を受けて行動していたと言われています。
隠密は、幕府の命令で敵対勢力や反乱分子などを暗殺する任務も担当していました。これにより、幕府の安定を図るとともに、敵対勢力を恐れさせる効果も狙っていました。
隠密は、外国の動向や情報を収集するための諜報活動も行っていました。彼らは外国の要人や商人などに接触し、情報を入手することで、幕府の外交政策の基盤となる情報を提供していました。
江戸幕府の隠密は、忍者として知られるようになりましたが、その実態は時代や地域によって異なります。彼らは幕府のために秘密裏に活動し、幕府の安定と発展に貢献していました。

2024年4月12日

忍者と天候の予測について

忍者は動物や昆虫の生き物の動きや雲や気候現象によって、天候を予想していたと言われます。
これは観天望気術と言われます。
「観天望気(かんてんぼうき)」は、古代中国の天文学者や占星術師が、天文現象や気象現象を観察して天候を予測しようとする技術や方法を指します。これは、現代の気象予報とは異なるアプローチで、主に天文現象や自然現象を観察して天気を推測するものです。
月や星の位置、日食や月食などの天文現象、風や雲の動き、虹や霧の発生などを観察し、これらの現象が示す気象の変化を予測してきました。これらの観測や予測は、農作物の栽培や災害の予防などに役立てられました。
観天望気は、科学的な根拠に基づく気象予測とは異なりますが、古代の観測技術や知識によって、一定の成功を収めてきたと考えられています。ただし、現代の気象予報と比較して、精度や信頼性は劣る面もあります。
大気の状態や、空気の密度がどうか、夜の星の出方がどうなっているかで天候を予測するということをしていたようです。


夜の星で言えば、星が瞬いて見えていれば翌日雨が降るというのがあります。
星が瞬いて見える現象は通常、大気中の湿気や気流の影響によるもので、天気の変化を示唆することがあります。一般的には、星が瞬いて見えることが雨の兆候とされることがありますが、科学的な根拠は確立されていません。星が瞬く原因は、大気中の不安定さや湿度の変化によるものであり、これが雨をもたらすかどうかは一概には言えません。
空にかかる虹が朝出ていると雨が降り、夕方出ていると晴れになるなどもあります。
生き物でいえば、海鳥が群となってやってきた後に風雨が来るといったものです。
海鳥が群れを成してやってくる現象は、一般的には天気の変化を示す兆候とされています。海鳥が群れをなして海岸や船の周りに集まることは、以下のような天気の変化を予測する手がかりとなることがあります。
海鳥が群れを成してやってくることは、通常は気圧の急激な変化を示しています。気圧の急変はしばしば悪天候をもたらすため、海鳥の集まりが悪天候を予測する手がかりとなることがあります。

海鳥が集まる場所には餌が豊富に存在する可能性があります。これは、海洋の生態系が活発化していることを示し、これが気象条件の変化をもたらすことがあります。
海鳥が風向きの変化に敏感であるため、群れが集まる方向の風が変化していることを示すことがあります。風向きの変化は、気象条件の変化を示す可能性があります。
これらの兆候は、海鳥の行動や生態を観察することで、一定程度の天気予測が可能とされています。ただし、正確な天気予測には複数の要素を考慮する必要があり、単独で海鳥の行動だけで天気を予測するのは難しい場合があります。

2024年3月25日

忍者と人相学・変装術について

忍者は人相学にも長けており、相手の顔の見え方の如何によって相手の性質を見極め策を練っていました。
人相から相手の性格を知ることで、信頼たるかどうかを調べていました。
人相学とは顔の形や特徴を観察することで、その人の性格や運命を推測しようとする学問や信念のことを指し、古代から存在し、さまざまな文化や地域で異なる形で発展してきました。
人相とは、人の顔や容貌からその性格や運命を推し量る考え方や学問のことを指します。古代中国やヨーロッパ、ギリシャなどの古代文明から現代に至るまで、さまざまな文化や時代で人相学の概念や理論が存在してきました。
人相学では、顔の形や特徴、目・鼻・口などのパーツの配置や大きさ、皮膚の質感や色合い、しわやシミの有無などを観察し、それらが持つ意味を解釈します。たとえば、目の形が鋭い人は積極的で行動力があり、鼻の高い人は優れたリーダーシップ能力を持つなどといった解釈がされることがあります。
忍者は相手の顔立ちだけでなく、自らも風貌を変え変装をするということも行いました。

忍者は、様々な変装や偽装を巧みに使いこなすことで、情報収集や潜入、敵を欺くなどの任務を遂行してきました。彼らの変装術は非常に高度で、人々を驚かせるだけでなく、敵を惑わすためにも使われました。
忍者の変装術には、以下のようなものがあります:
忍者は、目立たないような普段着や地元の衣装を身に着けることがありました。また、女装もしばしば使われ、女性に変装することで警戒心を解かせたり、潜入を成功させたりしていました。
仮面や面をつけることで、自分の顔を隠し、他人に気づかれにくくすることができました。また、特定の人物に変装するためにも用いられました。
声帯を鍛えることで声色を変え、別の人物になりきることもありました。また、人間や動物の声を模倣することで、周囲の状況を利用することもありました。
特殊な足袋を履いたり、姿勢を変えたりすることで、身長を変化させることができました。これにより、他人と見分けがつかないような変装が可能となりました。
忍者の変装は、その目的や状況によってさまざまです。以下に一般的なものや有名なものをいくつか挙げてみますが、実際の忍者の変装はさまざまな要素を組み合わせて行われたため、無限のバリエーションが存在します。
一般の人々と同じような服装をし、普段の生活を装うことで目立たず行動する。
寺院や修行の場に紛れ込み、僧侶として振る舞うことで情報収集や行動の隠匿を図る。

商人としての姿を装い、市場や交易路を通じて様々な場所に潜入する。
女装して女性として振る舞い、警戒心を緩めて敵対勢力の情報を収集する。
農民としてのふりをして、田畑や村落に潜伏して敵の動向を監視する。
武士や兵士として装い、戦場や要塞に潜入して情報収集や暗殺を行う。
これらの変装は、忍者がさまざまな任務を遂行する際に身元を隠すために使われました。目的や状況に応じて適切な変装を選択し、その使命を果たすことが忍者のスキルの一つでした。

2024年3月10日

忍者の記憶力と情報操作

忍者の活動において、記憶力は非常に重要な要素の一つでした。忍者は、様々な情報を記憶し、それを戦術や諜報活動に活かす必要がありました。

忍者が記憶力を活かす場面としては、以下のようなものが挙げられます。
戦闘や諜報活動において、忍者は地形や敵勢力の配置を正確に記憶し、それを活かして行動する必要がありました。特に、夜間や悪天候の中での作戦では、記憶力が試されました。
忍者は秘密の暗号や合図を使って情報を伝達することがありました。そのため、暗号や合図を正確に覚えて理解し、適切に使うことが求められました。
忍者が行う任務には、細かな詳細が含まれることが多かったため、それらを正確に覚えておくことが重要でした。例えば、潜入先の地図や構造、目標とする人物の特徴などが挙げられます。

忍者は様々な戦術や技術を習得し、それを使いこなす必要がありました。そのため、これらの知識や技術を正確に記憶することが求められました。
忍者は、危険な状況下での行動や、機密情報の取得など、高度な記憶力が要求される活動に従事していたため、記憶力を鍛えることが重要だったと考えられています。
ものの覚え方として、体の部位を使用するものもありました。
諜報活動として、ビラを撒いたり、偽の情報を流して撹乱することもありました。情報操作による撹乱、不意打ちなどの奇襲・夜襲などもありました。
忍者は、情報操作や心理戦術を含む諜報活動において、独自の技術や戦術を用いていました。以下に、忍者が情報操作を行う際に使用したとされる手法や技術をいくつか挙げてみます。
忍者は、敵対勢力に偽情報を流すことで混乱を引き起こしたり、自軍の情報を保護するために活動しました。この際、情報を信憑性の高いものに見せかける技術も用いられました。
忍者は、様々な変装を行うことで敵や周囲の人々を惑わせました。変装によって、敵の警戒を緩めたり、潜入活動を成功させるために利用されました。
忍者は、敵の心理に働きかけることで情報を引き出したり、敵を混乱させることがありました。敵を脅し、情報を引き出すなどの手法が用いられました。
忍者は、周囲の人々に自分の存在を気づかれないように行動し、情報を収集したり、目標を達成するために活動しました。この際、様々な隠密技術や工作技術が用いられました。
忍者の情報操作や諜報活動における技術や手法は、当時の戦国時代の情勢や状況に合わせて発展してきました。これらの技術や手法は、現代の情報戦や諜報活動においても参考にされることがあります。

2024年3月3日

島原の乱と忍者

島原の乱(しまばらのらん)が起きたときに、幕府軍が鎮圧に乗り出し時も忍者がいました。

天草四郎は、江戸時代初期の肥後国(現在の熊本県)出身で、島原の乱(1637年-1638年)の指導者として知られる人物です。
天草四郎の経歴と活躍として、天草四郎は、肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市旭町)で育ち、信仰を巡る政策に不満を持つキリシタンの指導者として、島原の乱を起こしました。
島原の乱は、島原領主が領民の過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民やキリシタンの弾圧を行ったことに対する反発から発生したと言われます。
島原の乱では、キリシタンの信徒や農民らと共に幕府軍と激しい戦いを繰り広げましたが、最終的には敗北して、処刑されました。
天草四郎は、キリシタンとしての信念と、庶民の生活改善を目指す姿勢から、一部では英雄視されることもあります。
天草四郎は、後世の歌舞伎や小説、漫画などで英雄として描かれ、その活躍が伝説化されています。特に、幼少期から非凡な力を持ち、乱を指導するなど、架空の要素も多く含まれています。
天草四郎は、島原の乱を指導したキリシタン武将として、日本の歴史において重要な存在とされています。

四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちの指導者になっていたと見られています。この乱の鎮圧後、幕府はさらなる対外的な脅威を避けるため、鎖国政策を強化しました。この政策は、外国との交流を制限し、日本の国内を統制することで、幕府の権威を強化する狙いがありました。
以前は島原の乱での忍びは活躍しなかったと言われていましたが、現在では熊本藩での忍びが天草四郎館を焼き払い、秋月藩の忍びが城内に侵入し情報を伝えたなどの活躍をしたと言われています。

熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩で、石高は52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行していました。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれます。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれ、熊本藩細川家は肥後一円を領有していなく、国持ち大名(大身国持)とされました。
秋月藩(あきづきはん)は、福岡藩の支藩で、1623年(元和9年)に黒田長政の三男・黒田長興が福岡藩より5万石を分知されて立藩し、秋月黒田家が納めていました。

2024年2月27日

戦国武将と忍者の関係

戦国武将と忍者の関係は、戦国時代の歴史において重要な要素の一つです。織田信長は戦国時代の戦国大名であり、その政治手腕や軍事力によって織田家を全国規模の勢力に押し上げました。信長は多くの忍者を雇い入れ、情報収集や諜報活動、暗殺などに活用しました。

信長が忍者を利用した具体的な事例としては、信長が自身の警護や情報収集のために伊賀や甲賀などの忍者集団を雇ったことが知られています。
戦国武将に仕えた忍者は、伊賀出身の忍者の一族である服部半蔵らが有名です。

服部半蔵(はっとり はんぞう)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍したとされる忍者の一人で、伝説的な存在とされています。ただし、実際の歴史的な証拠は限られており、多くは物語や伝承によって語られています。

服部半蔵の伝説によれば、彼は伊賀忍者の首領であり、徳川家康などの武将に仕えたとされています。彼の活躍は多くの物語や戯曲、映画などにも取り入れられ、日本の文化に深く根付いています。

服部半蔵は、忍者の一人として日本の歴史や文化において非常に有名な存在ですが、実在性については疑問視されることもあります。以下に、服部半蔵に関する一般的な認識や伝承に基づいた情報をまとめてみます。
服部半蔵の出自には諸説ありますが、先祖は代々伊賀国花垣村余野(現・伊賀市)の千賀地谷に居住し、周辺の地を治めてきた一族とされています。
忍者として、秀吉や家康などの有力な武将に仕え、さまざまな活躍をしたとされています。
忍術や諜報活動、工作活動など、幅広い技術を持ち、伝説では特に優れた活躍が描かれます。
服部半蔵の実在性については、史料や記録などに直接的な証拠は乏しいとされています。そのため、実在した人物が後世の伝承によって「服部半蔵」として語られた可能性もあります。服部半蔵の伝説は、後世の創作やフィクションとして捉えられることもありますが、日本の忍者文化や歴史において重要な位置を占めています。

信長は忍者を巧みに利用し、その軍事力を強化するとともに、政治的な手段としても活用しました。しかし、信長が忍者をどれだけ信頼していたかや忍者との具体的な関わりについては、資料によって異なる見解があります。

一説では信長の重臣・滝川一益(たきがわかずます)は近江国甲賀の出身で、信長の家臣として活躍しました。信長の命により北信濃や武田氏との戦いに参加し、武功を挙げました。特に、天正10年(1582年)の本能寺の変後に起こった天正壬午の乱では、秀吉に従って北信濃で武田勝頼と戦い、勝利を収めました。

一益は秀吉からの信頼も厚く、秀吉の家臣団の中でも重要な役割を果たしました。天正14年(1586年)に起きた小牧・長久手の戦いにも参戦しました。享年62歳と言われています。秀吉は一益の死を悼み、その武功を称えるために一益の子孫に知行を与えるなどしていました。

2024年2月24日

忍術書とは

忍術書とは、忍者や忍術に関する技術や知識を記した書物のことです。これらの書物には、忍者が用いたとされる様々な技術や戦術、暗号、偽装、間諜活動などに関する内容が記されています。忍者は秘密裏に活動したため、その技術や知識は口伝や書物を通じて後世に伝えられてきました。忍術書には、忍者がどのような活動を行い、どのような特殊な技術や知識を持っていたのかを知る上で貴重な資料とされています。

・忍術書と中国の関係
忍術書と中国の関係は複雑で、一部の忍術や忍者の技術が中国の武術や軍事思想から影響を受けているとする見方もありますが、忍術書自体が中国に起源を持つとは言い切れません。
一部の研究者は、忍者の起源が中国にあると主張しています。彼らは、中国の武術や軍事思想が日本に伝わり、忍者の技術や活動に影響を与えたと考えています。例えば、中国の武術には気功や体術があり、これが忍者の特殊な技術や身体能力の基礎となったとする説もあります。

例えば、忍術の百科事典『万川集海』には、中国最古の兵法書である『孫子』が数多く引用されていると言われます。孫子は紀元前5世紀頃に生きた中国の軍事思想家である孫武(そんぶ)によって著されたとされる兵法書で、戦術や兵法に関する基本的な考え方が記されています。孫子は、兵法書の中でも最も有名であり、古代中国の軍事思想や戦争の本質について深く探求した内容が特徴です。
万川集海は全22巻で、伊賀と甲賀に伝わる忍術を集大成した秘伝書です。著者は伊賀東湯舟の藤林保武で、延宝4年(1676)に著されたとされます。
忍術書の具体的な起源や内容については諸説あり、中国との直接的な関連性ははっきりしていません。忍術書は主に日本において発展し、忍者の活動や技術を伝えるために書かれたものとされています。
三大忍術書として『万川集海(まんせんしゅうかい)』、『忍秘伝(にんぴでん)』、『正忍記(しょうにんき)』があります。
忍秘伝は全4巻で、忍術を説明する各論で成り立ち、具体的な技法を教授するものです。現代語訳版も市販されています。承応4(1655)年に服部美濃部三郎らがまとめていたとされています。
正忍記は延宝9(1681)年に紀州藩で軍学者を務めた人物である名取正澄によって書かれたとするもので、全3巻の構成です。忍びのあり方や現実的で実銭的な忍術について記されているとされます。
これらの書物は、忍者や忍術に関する古典的な文献として知られており、忍者文化や歴史を理解する上で重要な資料とされています。

2024年2月23日

忍者と修験道について

修験道は、山岳信仰を中心とする日本の宗教・霊的修行の道を指します。修験者は修験道を通じて霊的な修行を行い、自然や山岳を崇拝し、霊的な力を身につけることを目指しました。修験道は、日本の仏教と山岳信仰、陰陽道などの要素が融合した独自の宗教文化です。
修験道では山岳や自然を神聖な存在として崇拝します。修験者は山中での修行を通じて、自然の神秘を体験し、霊的な力を得ると考えました。
修験者は、断食や禁欲、厳しい修行を行い、自己の霊性を高めることを目指しました。修験道では、肉体の訓練と精神の修行が組み合わさった独特の修行方法が用いられました。

修験者は、山中での修行を重視しました。修験道では、特定の山や霊場において修行を行うことが重要視され、その山や霊場が特別な霊場として崇められました。
修験道では、仏教の仏や菩薩だけでなく、神道の神や自然界の霊なども信仰の対象とされました。修験者は、さまざまな神や霊に対して尊敬と信頼を寄せました。
修験道は、日本の宗教文化に深く根ざした霊的な修行の道であり、山岳信仰や自然崇拝の要素を取り入れた独自の宗教形態として発展しました。修験者は、修験道を通じて自然との調和や霊的な成長を追求しました。
修験道は、日本の歴史の中で古くから存在していましたが、その起源や成立時期については明確な年代を特定することが難しく、一般的には、修験道が成立したとされる時期は奈良時代(8世紀後半から9世紀)から平安時代初期(9世紀末から10世紀初頭)にかけてとされています。
修験道は、山岳信仰や自然崇拝、仏教の教えなどが融合した日本独自の宗教文化であり、山岳地帯を中心に発展してきました。古代日本では、山岳地帯や自然を霊峰として崇拝する風習があり、これが後の修験道の基盤となったと考えられています。
修験道は、平安時代に入ると盛んになり、修験者が山中での修行や巡礼を行うようになりました。また、仏教の教えや密教の影響を受けながらも、独自の修行方法や儀式が発展していきました。修験道は、中世には全盛期を迎え、修験者が社会的な地位を持つこともありました。

修験寺院は、読み書きを習得させる場でもあり、人々の特殊な技術や知識の習得にもつながりました。中之条町六合赤岩地区には鏡学院という修験者の院がありました。赤岩地区は蘭学者高野長英の隠れ里として有名です。
修験道は古代から存在していた山岳信仰や自然崇拝を基盤に、仏教の教えや密教の影響を受けながら、奈良時代から平安時代にかけて発展してきたとされています。
修験道は奈良時代の鬼を使役した役小角を開祖としていて各地の霊山で修行が行われました。伊賀・甲賀には役小角を祀る寺院が存在し、修験道は忍者に影響を与えたと言われます。忍者や修験者は同時代に存在し、一部の忍者が修験道の影響を受けた可能性は考えられます。修験道では自然や山岳を信仰し、その力を借りて霊的な力を得ることが目的であるため、忍者も山中での修行や自然との共生を通じて、身体能力や精神力を高めることが重要だと考えた可能性があります。