2024年9月1日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その34 -武士の館-

この記事は忍者豆知識その34です。この記事は前回のお城の要素と武士の館についてお届けします。

・環濠集落その2
環濠集落の日本における例
大阪府堺市の堺(さかい)は、日本でも有名な環濠都市の一つです。中世には商業の中心地として栄え、多くの商人が住み、環濠によって防御が固められていました。堺は自治都市として発展し、独自の自治権を持つほどの繁栄を見せました。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の環濠集落の代表的な例です。ここでは、広範囲にわたる環濠や防御施設が発見されており、当時の集落が外部からの脅威に対してどのように対応していたかが伺えます。

歴史的な意義として、環濠集落は、防衛とコミュニティ形成の面で重要な役割を果たしました。これらの集落は、戦国時代のような不安定な時代に特に発展しましたが、やがて戦乱の終息や交通の発展に伴い、その必要性が薄れていきました。

環濠集落の遺構は、現代においても貴重な歴史的資産として保存されている場所があり、当時の人々の生活や社会構造を知るための重要な資料となっています。

・武士の館(鎌倉時代と室町時代)その1
鎌倉時代と室町時代で、武士の館のあり方は変わります。
鎌倉時代は簡素な作りをしていて防御面では室町時代の方が優れていたと言われています。
鎌倉時代と室町時代における武士の館(武士の居館)は、それぞれの時代背景や社会構造の違いにより、その構造や機能、そして役割にさまざまな違いが見られます。

・鎌倉時代の武士の館

・構造と機能
鎌倉時代の武士の館は、比較的簡素な造りでした。武士たちはまだ地方に基盤を持つ者が多く、館は防御を重視した造りになっていました。木造の簡素な建物が多く、外部からの攻撃に備えて堀や塀で囲まれていることが一般的でした。
武士の館は、戦時における防衛拠点であり、平時には農業経営の中心でもありました。館の周囲には農地や家臣の住まいが広がり、集落の中心的な存在として機能しました。

・社会的役割
鎌倉時代は源頼朝が開いた鎌倉幕府によって、武士の時代が本格的に始まりました。武士の館は軍事的な機能を強く持ち、戦乱や争いに備える役割が重視されました。
・室町時代の武士の館

・構造と機能
室町時代になるとより洗練された構造になり、武士の館はより洗練され、豪華なものへと進化しました。庭園や池、書院造(しょいんづくり)と呼ばれる座敷などが整備され、生活の質や文化的な要素が重視されるようになりました。特に有力な大名の館では、京都の貴族文化の影響を受けた華やかな装飾が施されました。
武士の館は、防衛拠点であると同時に、政治や外交の場、さらに茶の湯や能などの文化活動の拠点としても利用されました。大名たちは、館を権力の象徴として使用し、その威厳を示す場としました。

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2024年8月31日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その33 -長篠城-

この記事は忍者豆知識その33です。この記事は真田氏と関係のある武田氏に関するお城と、お城の要素についてお届けします。

・長篠城(ながしのじょう)
長篠の戦いと関係するお城です。
武田勝頼軍と織田信長軍が戦いましたが、武田軍の騎馬隊は織田・徳川連合軍の鉄砲隊によって打ち負かされました。
長篠城は、日本の戦国時代において重要な歴史的な役割を果たした城であり、現在の愛知県新城市に位置していました。この城は、武田信玄の侵攻や後に織田信長と徳川家康が協力して武田勝頼を撃退した長篠の戦いの舞台として知られています。

歴史と背景として、長篠城は、戦国時代の初期に菅沼氏によって築かれ、その後、奥平氏がこの城を支配しました。1568年に徳川家康の配下である奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主となり、徳川方の重要な拠点となりました。

・長篠城の戦い
1575年(天正3年)、武田勝頼は長篠城を攻め落とそうとしました。この城は、当時の徳川家康の配下である奥平信昌が守っていました。城の守りは堅固であり、武田軍の猛攻をしのぎましたが、城は窮地に立たされました。この時、織田信長と徳川家康は連合軍を編成し、長篠城を救援するために出陣しました。

・長篠の戦い
長篠城を巡る戦いは、1575年の長篠の戦い(長篠・設楽原の戦い)へと発展しました。この戦いは、日本の戦国時代における最も重要な戦いの一つとして知られており、織田信長と徳川家康の連合軍が、火縄銃(鉄砲)を大量に使用して、武田勝頼の騎馬軍団を撃退しました。この戦いによって、武田氏は大きな打撃を受け、勢力は衰退に向かいました。

現在、長篠城跡は史跡として整備されており、長篠城址史跡保存館が設置されています。訪問者は、城の遺構や長篠の戦いに関する資料を見学することができ、戦国時代の歴史に触れることができます。

・環濠集落(かんごうしゅうらく)その1
環濠集落は、日本の古代から中世にかけて見られる防衛機能を備えた集落の形式の一つです。集落の周囲に堀(濠)や土塁を巡らせて、防御を固める構造になっていることが特徴です。この形式は、特に戦乱や外敵からの襲撃が頻繁だった時期や地域で発達しました。

・環濠集落の特徴
環濠集落の最大の特徴は、その防御機能です。集落を囲む堀や土塁が、外部からの侵入を防ぐ役割を果たしました。堀は通常、水を張っている場合が多く、これが侵入者を防ぐための物理的障壁となります。
共同体意識として、環濠集落は共同体としての結束が強く、住民が一丸となって外敵から身を守るための防衛システムを構築していました。このことが、集落内の結束を強め、共同体意識を高めました。
集落の構造として、環濠集落では、住宅や倉庫、作業場などが集中的に配置され、効率的な防衛を行うためのコンパクトな集落が形成されていました。集落の入口は制限されており、堀や土塁を越えるための橋や門が設置されていました。

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2024年8月26日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その32 -三方河原の戦い-

この記事は忍者豆知識その32です。今回は真田氏と関係のある武田氏と、室町時代の要素についてお届けします。
・三方河原の戦い(みかたがはらのたたかい)
三方河原の戦いでは、徳川家康との戦いで、武田氏は三河(現在の愛知県)を攻めて勝ちましたが、信玄の病状が悪化し病気により戦争中になくなりました。
三方ヶ原の戦いは、戦国時代に起こった有名な合戦の一つで、1572年に徳川家康と武田信玄の間で行われました。この戦いは、徳川家康が武田信玄の圧倒的な軍勢に敗北したことで知られています。
武田信玄は、甲斐(現在の山梨県)を本拠地とし、関東や東海地方への勢力拡大を目指していました。1572年、信玄は上洛(京都への進軍)を目指し、徳川領の遠江(現在の静岡県西部)を通過することになりました。この時、徳川家康は信玄の進軍を阻止するために、浜松城を拠点として武田軍と対峙しました。
三方ヶ原の戦いは、浜松城近くの三方ヶ原台地で行われました。家康は信玄の軍勢を迎撃するつもりでしたが、武田軍の戦術と圧倒的な兵力に圧倒され、壊滅的な敗北を喫しました。徳川軍は多くの兵を失い、家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰りました。
戦後の影響として、この敗北により、家康は大きな打撃を受けましたが、その後の戦いで学び、さらに強固な軍事指導者として成長しました。家康はこの経験を活かし、後に徳川幕府を開く基盤を築いていきました。

三方ヶ原の戦いは、戦国時代の戦闘技術や戦術、そして戦国大名たちの政治的な動向を知る上で重要な出来事の一つとされています。

・御所と守護所についてその1
「御所」と「守護所」は、日本の歴史における異なる役割を持つ場所や施設を指します。

・御所(ごしょ)
御所は、室町時代では主に将軍の住まいを指します。また、天皇が住んでいた場所や、特定の貴族や将軍が住んでいた邸宅のことも「御所」と呼ばれることがあります。平安時代以降、京都の皇居を「内裏」(だいり)と呼びましたが、これも御所の一種です。天皇が政治を行い、日常生活を送る場であり、日本の中枢機関の役割を果たしていました。

例: 京都御所(天皇が居住した京都の宮殿)
・守護所(しゅごしょ)
守護所は、中世日本の「守護」が行政や軍事を行うために設置した拠点を指します。「守護」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、各地の武士を統治するために設置された地方の役職で、幕府によって任命されました。守護所は、守護が自分の管轄地域(守護領)で統治活動を行う中心地であり、行政、司法、軍事の拠点として機能しました。

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2024年8月24日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その31 -川中島の戦い-

この記事は忍者豆知識その31です。今日は真田氏と関係のある武田氏と、お城の要素についてお届けします。
・真田氏の関係のある武田氏の戦い、川中島の戦いその2
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、武田信玄と上杉謙信とで現在の長野県北部で5度の領地争いしました。
これは決着がつかずに終わった争いでした。
川中島の戦いは、戦国時代における日本の戦国大名、上杉謙信と武田信玄の間で行われた一連の戦いを指します。この戦いは1553年から1564年にかけて、北信濃(現在の長野県)に位置する川中島周辺で5回にわたり繰り広げられました。戦国時代における最も有名な合戦の一つとして知られています。
川中島の戦いは、戦国時代における名将同士の対決として、後世に多くの物語や絵画の題材となりました。特に第四次川中島の戦いは、上杉謙信と武田信玄の一騎討ちとして描かれることが多く、ドラマチックな場面として広く知られています。

・山城(やましろ)について
山城(やましろ)は、日本の伝統的な城郭の一つで、山の地形を利用して築かれた城のことを指します。山城は戦国時代を中心に多く築かれ、日本各地に存在しました。敵の攻撃を防ぐために自然の地形を活用し、堅固な防御力を誇るのが特徴です。

山城の特徴として、地形を利用した防御があります。
山の斜面や尾根などの地形をそのまま防御施設として利用します。急な斜面や谷を利用することで、敵が容易に攻め込むことができないように作られています。
城内にいくつかの郭(くるわ)が設けられ、これが階段状に配置されることが多いです。最も高い場所に本丸があり、その周りに二の丸、三の丸といった副郭が続きます。
土塁や堀切があり、山城では土塁や堀切がしばしば使われ、敵の侵入を防ぎます。堀切は尾根を切断して作られた人工的な溝で、これによって敵の進行を阻止します。
・物資の確保が難しい
山の中に位置するため、食料や水の確保が平地の城に比べて困難であることが多いです。そのため、短期間の籠城戦を想定した造りになっていることが多いです。
戦国時代に多く、山城は戦国時代に多く築かれました。防御力を高めるために山の上に築かれた城は、外敵からの侵略を防ぐための重要な拠点となりました。
有名な山城としては、
岐阜城(岐阜県)は、織田信長が居城とした城で、金華山の山頂に築かれています。
備中松山城(岡山県)は日本三大山城の一つで、現在も現存天守が残る貴重な山城です。
高取城(奈良県)は日本三大山城の一つで、標高が高く、眺望が素晴らしいことで知られています。
山城は、地形を最大限に活かした防御的な構造が特徴で、戦国時代における城郭の中でも特に興味深い存在です。

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2024年8月19日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その30 -木曾福島城-

この記事は忍者豆知識その30です。今日は真田氏と関係のある武田氏と、お城の要素についてお届けします。

・木曾福島城(きそふくしまじょう)について
戦国時代に、木曾氏が建てたとされるお城です。
武田氏の信濃侵攻に備えて木曾氏が築いたお城と言われています。
1598年(慶長3年)にお城は廃城となりました。
遺構には土類、堀などが残されています。

・御殿についてその2
京都にある二条城の二の丸御殿は、徳川家康が京都において将軍職を行うために建設したもので、豪華な内部装飾と広大な庭園が特徴です。襖絵には狩野派の絵師による作品が多く見られ、江戸時代の文化の高さを物語っています。
徳川家康が晩年を過ごした駿府城にも御殿が設けられていました。駿府城の御殿は、政治的な中心地としてだけでなく、家康の隠居後の生活の場でもありました。

・御殿の役割と生活
御殿は、その役割から家臣とのやりとりを行う「表」と、家族との暮らしを意味する「奥」とで分かれていました。
政治的役割として、御殿は、江戸時代の政治の中心として機能しました。特に将軍や大名が政務を行う場として、各地の大名や武士たちが参集し、重要な決定が行われました。
文化的役割として、御殿はまた、文化的な活動の場でもありました。茶の湯、能楽、書道、絵画など、武士たちが嗜んだ文化が発展した場所でもあります。御殿内の茶室や庭園は、茶道や園芸などの文化活動に使用されました。
・御殿の象徴性
江戸時代の御殿は、単に住居や政務の場であるだけでなく、その家の権威や威信を示す象徴的な建物でもありました。豪華な装飾や広大な敷地は、その家の富と力を示すものであり、また来客を迎える際の重要な場所でもありました。

・御殿の保存と復元
多くの御殿は明治維新後の変革で取り壊されたり、火災で失われたりしましたが、現在でも二条城の二の丸御殿など、一部の御殿は文化遺産として保存されています。これらの御殿は、日本の伝統建築や歴史的な文化を伝える重要な施設として、多くの観光客に親しまれています。

江戸時代の御殿は、日本の歴史と文化の一端を垣間見ることができる貴重な遺産です。

「御殿」(ごてん)という言葉は、主に日本における貴族や武士、または皇族などの高貴な人々が住む邸宅や建物を指します。歴史的には、特に戦国時代から江戸時代にかけて、多くの大名や将軍が広大で豪華な御殿を建てました。

御殿は、単に居住空間であるだけでなく、政治的な活動や儀式が行われる場所でもありました。典型的な御殿は、庭園や池、茶室などを備えた複合的な建築様式を持ち、そのデザインや装飾にはその家の富や権力を示す意味も込められていました。

たとえば、江戸城内にあった「二の丸御殿」や、京都御所の「紫宸殿(ししんでん)」は、いずれも重要な御殿の例として挙げられます。

また、御殿という言葉は現代においても、高級住宅や豪邸を指して使われることがあります。この場合、豪華さや格式の高さを強調するための表現として用いられます。

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2024年8月18日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その29 -野田城-

この記事は忍者豆知識その29です。今日は真田氏と関係のある武田氏の攻めたお城と、お城の要素についてお届けします。


・野田城(のだじょう)
野田城は、現在の愛知県新城市豊島にあったお城です。
武田氏と徳川氏との戦いにおいて決戦場になった場所です。
武田氏(信玄)は戦いに勝利しましたが、この戦いで病気が悪化し、なくなりました。
現在その場所には土塁と空堀が残されています。

・城門についてその2、有名な城門の例
大手門(おおてもん)は通常、城の正門にあたる門で、城の正面玄関として機能しました。敵が城に侵入する際、最初に立ちはだかるのがこの大手門です。たとえば、江戸城の大手門は特に有名です。
たとえば、大坂城の三の丸大手門(さんのまるおおてもん)は、櫓門と枡形門が組み合わさった非常に強固な構造で、徳川家康が豊臣家を滅ぼした際に重要な役割を果たしました。


・戦国時代と江戸時代の違い
戦国時代は戦が頻繁に行われていたため、城門は非常に実戦的な防御機能が強調されていました。門の構造は敵を罠にかけ、時間を稼ぐような工夫が施されていました。
江戸時代になると平和な時代が続いたため、城門の防御機能よりも、その象徴的な価値や権威を示すためのデザインが重視されるようになりました。門の装飾や形式が洗練される一方で、防御機能が必ずしも最優先ではなくなりました。
これらの城門は、城郭建築の技術の高さと防衛のための知恵が凝縮されたものであり、日本の歴史的な建築遺産の一部として今でも多くの城でその姿を見ることができます。

・御殿についてその1

江戸時代の「御殿」は、主に大名や将軍、皇族などの高貴な人々が住む邸宅や政務を行うための施設を指します。御殿は、その居住者の身分や地位を象徴する豪華な建物であり、政治的、文化的な中心地としての役割も果たしていました。

・江戸時代の御殿の特徴
江戸時代の御殿は、和風建築を基調としながらも、非常に豪華な装飾が施されていました。畳敷きの大広間や、障子、襖(ふすま)に描かれた絵画、精緻な彫刻などが特徴的です。また、庭園や茶室などが併設され、自然との調和が重視されました。
御殿は複数の建物が連なった構造で、主殿、書院、茶室、離れなどの建物が配置されていました。また、外部からの侵入を防ぐための塀や門、そして池や石垣などが設けられ、厳重な防御が施されていました。
・ 江戸時代の代表的な御殿
江戸城の御殿として、江戸城内には、「本丸御殿」、「二の丸御殿」、「西の丸御殿」など複数の御殿が存在していました。これらの御殿は将軍の住居であり、政務を行う場でもありました。特に本丸御殿は、将軍の公式な居住空間であり、政治的な儀式が行われる重要な場所でした。

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2024年8月17日

落とし物のお知らせ

昨日(16日)、にんぱくの駐車場に、「ドラえもんのペンケース」が落ちておりました。心当たりのある方は、にんぱくまでご連絡お願いいたします。

2024年8月16日

臨時休業のお知らせ

8月の臨時休業のお知らせです。

18日(日)、

19日(月)、

23日(金)

はにんぱくは臨時休業とさせていただきます。

ご来館を予定されていた方には大変申し訳ありませんが、ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

2024年8月11日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その28 -高遠城-

この記事は忍者豆知識その28です。今日は真田氏と関係のある武田氏が攻めたお城と、お城の要素についてお届けします。

・高遠城(たかとうじょう)
高遠城は、現在の長野県伊那市高遠町にあったお城です。
高遠氏の居城でしたが、武田氏に攻められて開城します。
武田信玄の家臣であった山本勘助が縄張りにした堅城でした。
跡地には高遠城址公園があり、桜の名所として有名です。

・天守についてその2、天守の歴史
戦国時代(1467年-1615年)、天守は戦国大名によって建てられ、城の防御機能と共にその権力を誇示する目的がありました。
織田信長が築いた安土城の天守が代表例で、天守の普及に大きな影響を与えました。
江戸時代(1603年-1868年)、江戸幕府の統治下で全国的に平和な時代が続き、天守は実戦用よりも権威の象徴としての役割が強まりました。
各地の大名が競って立派な天守を築くようになり、現在でも多くの名城がその姿を留めています。
天守の役割として、敵の侵入を防ぎ、籠城戦に備えるための要塞としての機能を持ちます。
高い位置からの監視や攻撃が可能で、城全体の防御システムの中核を成します。
監視機能として、城下や周囲の地域を見渡すための見張り台としての機能も果たします。
敵の動きを早期に察知するために重要な役割を担います。
権威の象徴として、城主の権力と威信を示すために、豪華な装飾や大規模な構造が採用されることが多いです。
城下町や領民に対する威圧的なシンボルとしての役割を果たします。
天守は日本の歴史や文化を深く象徴する建築物であり、その美しさと機能性は現在でも多くの人々を魅了しています。

・城門についてその1、戦国時代と江戸時代の城門
戦国時代や江戸時代の城門は、日本の城郭の防衛構造の中で非常に重要な役割を果たしていました。城門は単なる出入り口ではなく、敵の侵入を防ぐための防御機能が施された複雑な構造を持つことが多かったです。
城門の役割として、城門は敵の侵入を防ぐために頑丈に作られておりました。これにより、敵が一度に多数で門を突破することが難しくなっていました。
城門はまた、城への出入りを監視し、管理する場所でもありました。城内に入る者は門で確認を受ける必要がありました。

・代表的な城門の種類
枡形門(ますがたもん)は二重の門で構成され、門と門の間に枡形と呼ばれる四角形の空間が設けられていました。敵が最初の門を突破した場合、この枡形で囲まれ、四方から攻撃を受ける構造になっていました。
薬医門(やくいもん)は左右に柱が立ち、その上に屋根がかかる形式の門です。屋根が大きく突出しており、荘厳な印象を与えます。この門は主に城郭の内側や大名屋敷の玄関として使用されることが多かったです。
櫓門(やぐらもん)は門の上に櫓(やぐら)が設置されたもので、城内外の監視や防衛のために用いられました。この門は攻撃に対する防御力を高めるために作られており、城の重要な部分に設けられることが多かったです。

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2024年8月10日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その27 -岩村城-

この記事は忍者豆知識その27です。今日は真田氏と関係のある武田氏と、お城の要素についてお届けします。
・岩村城
岩村城は、現在の岐阜県恵那市岩村町にあったお城です。
戦国時代に、織田氏と武田氏がともに戦いあったお城です。
お城を築いたのは遠山氏で、戦国時代になり織田徳川武田の争いが激しくなり、このお城もその対象となりました。
日本100名城として指定されています。

・お城の要素、櫓(やぐら)について
櫓(やぐら)は、日本の城や戦場で使われる高い構造物で、見張りや防御のために用いられます。櫓は敵の動きを監視するための見張り台としてだけでなく、弓矢や銃火器を使って攻撃するための場所としても使用されました。以下に櫓の主要な種類とその特徴をいくつか紹介します。
望楼型(ぼうろうがた)は、高く、四方を見渡せる構造です。主に見張りや監視のために使用されます。
多聞櫓(たもんやぐら)は、長い廊下のような構造で、城の周囲を取り囲む形で配置されることが多いです。武器や兵士の収容に使われることもあリます。
角櫓(かどやぐら)は、城の隅や角に設置される櫓です。敵の進入を防ぐために重要な位置に配置されます。
井戸櫓(いどやぐら)は、井戸の上に建てられた櫓です。井戸を守るための構造で、攻撃を受けても井戸を安全に保つ役割を果たします。
櫓は高い位置にあるため、周囲の動きを監視しやすく、敵の接近をいち早く察知することができます。
櫓からは弓矢や鉄砲を使用して攻撃することができ、敵の進行を阻止する効果があります。
煙や光を使って信号を送ることで、遠くの味方に情報を伝える役割も果たします。
櫓は戦国時代に発展し、城郭の重要な防御施設として使用されました。江戸時代に入ると、戦争の機会が減少し、櫓はより装飾的な意味合いを持つようになりましたが、それでもなお城の防御機能の一部として存在し続けました。
櫓の設計や構造は城によって異なり、地方ごとに独自の工夫が凝らされています。現在でも多くの城跡や復元された城で櫓を見学することができます。

・天守について(その1)
天守(てんしゅ)は、日本の城郭における最も高い建物で、城の象徴とも言える存在です。天守は、防御・監視・権威の象徴としての役割を果たし、戦国時代から江戸時代にかけて多くの城に建てられました。以下に天守の特徴、歴史、役割について詳しく説明します。
天守は複数の層からなる階建て構造で、最上層からは城下や周囲の地域を一望できるように設計されています。
木造建築が基本であり、瓦や白壁が用いられることが多いです。
独立式天守は、 天守だけが独立して建てられているものです。
複合式天守は、複数の櫓や天守が連結しているものです。
連結式天守は、天守と他の建物が渡り廊下や橋で連結されているものです。
天守には金箔を使った装飾や瓦の飾りが施されることがあり、城主の権威を象徴する要素となっています。

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