2024年8月31日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その33 -長篠城-

この記事は忍者豆知識その33です。この記事は真田氏と関係のある武田氏に関するお城と、お城の要素についてお届けします。

・長篠城(ながしのじょう)
長篠の戦いと関係するお城です。
武田勝頼軍と織田信長軍が戦いましたが、武田軍の騎馬隊は織田・徳川連合軍の鉄砲隊によって打ち負かされました。
長篠城は、日本の戦国時代において重要な歴史的な役割を果たした城であり、現在の愛知県新城市に位置していました。この城は、武田信玄の侵攻や後に織田信長と徳川家康が協力して武田勝頼を撃退した長篠の戦いの舞台として知られています。

歴史と背景として、長篠城は、戦国時代の初期に菅沼氏によって築かれ、その後、奥平氏がこの城を支配しました。1568年に徳川家康の配下である奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主となり、徳川方の重要な拠点となりました。

・長篠城の戦い
1575年(天正3年)、武田勝頼は長篠城を攻め落とそうとしました。この城は、当時の徳川家康の配下である奥平信昌が守っていました。城の守りは堅固であり、武田軍の猛攻をしのぎましたが、城は窮地に立たされました。この時、織田信長と徳川家康は連合軍を編成し、長篠城を救援するために出陣しました。

・長篠の戦い
長篠城を巡る戦いは、1575年の長篠の戦い(長篠・設楽原の戦い)へと発展しました。この戦いは、日本の戦国時代における最も重要な戦いの一つとして知られており、織田信長と徳川家康の連合軍が、火縄銃(鉄砲)を大量に使用して、武田勝頼の騎馬軍団を撃退しました。この戦いによって、武田氏は大きな打撃を受け、勢力は衰退に向かいました。

現在、長篠城跡は史跡として整備されており、長篠城址史跡保存館が設置されています。訪問者は、城の遺構や長篠の戦いに関する資料を見学することができ、戦国時代の歴史に触れることができます。

・環濠集落(かんごうしゅうらく)その1
環濠集落は、日本の古代から中世にかけて見られる防衛機能を備えた集落の形式の一つです。集落の周囲に堀(濠)や土塁を巡らせて、防御を固める構造になっていることが特徴です。この形式は、特に戦乱や外敵からの襲撃が頻繁だった時期や地域で発達しました。

・環濠集落の特徴
環濠集落の最大の特徴は、その防御機能です。集落を囲む堀や土塁が、外部からの侵入を防ぐ役割を果たしました。堀は通常、水を張っている場合が多く、これが侵入者を防ぐための物理的障壁となります。
共同体意識として、環濠集落は共同体としての結束が強く、住民が一丸となって外敵から身を守るための防衛システムを構築していました。このことが、集落内の結束を強め、共同体意識を高めました。
集落の構造として、環濠集落では、住宅や倉庫、作業場などが集中的に配置され、効率的な防衛を行うためのコンパクトな集落が形成されていました。集落の入口は制限されており、堀や土塁を越えるための橋や門が設置されていました。

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