この記事は忍者豆知識その32です。今回は真田氏と関係のある武田氏と、室町時代の要素についてお届けします。
・三方河原の戦い(みかたがはらのたたかい)
三方河原の戦いでは、徳川家康との戦いで、武田氏は三河(現在の愛知県)を攻めて勝ちましたが、信玄の病状が悪化し病気により戦争中になくなりました。
三方ヶ原の戦いは、戦国時代に起こった有名な合戦の一つで、1572年に徳川家康と武田信玄の間で行われました。この戦いは、徳川家康が武田信玄の圧倒的な軍勢に敗北したことで知られています。
武田信玄は、甲斐(現在の山梨県)を本拠地とし、関東や東海地方への勢力拡大を目指していました。1572年、信玄は上洛(京都への進軍)を目指し、徳川領の遠江(現在の静岡県西部)を通過することになりました。この時、徳川家康は信玄の進軍を阻止するために、浜松城を拠点として武田軍と対峙しました。
三方ヶ原の戦いは、浜松城近くの三方ヶ原台地で行われました。家康は信玄の軍勢を迎撃するつもりでしたが、武田軍の戦術と圧倒的な兵力に圧倒され、壊滅的な敗北を喫しました。徳川軍は多くの兵を失い、家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰りました。
戦後の影響として、この敗北により、家康は大きな打撃を受けましたが、その後の戦いで学び、さらに強固な軍事指導者として成長しました。家康はこの経験を活かし、後に徳川幕府を開く基盤を築いていきました。
三方ヶ原の戦いは、戦国時代の戦闘技術や戦術、そして戦国大名たちの政治的な動向を知る上で重要な出来事の一つとされています。
・御所と守護所についてその1
「御所」と「守護所」は、日本の歴史における異なる役割を持つ場所や施設を指します。
・御所(ごしょ)
御所は、室町時代では主に将軍の住まいを指します。また、天皇が住んでいた場所や、特定の貴族や将軍が住んでいた邸宅のことも「御所」と呼ばれることがあります。平安時代以降、京都の皇居を「内裏」(だいり)と呼びましたが、これも御所の一種です。天皇が政治を行い、日常生活を送る場であり、日本の中枢機関の役割を果たしていました。
例: 京都御所(天皇が居住した京都の宮殿)
・守護所(しゅごしょ)
守護所は、中世日本の「守護」が行政や軍事を行うために設置した拠点を指します。「守護」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、各地の武士を統治するために設置された地方の役職で、幕府によって任命されました。守護所は、守護が自分の管轄地域(守護領)で統治活動を行う中心地であり、行政、司法、軍事の拠点として機能しました。