この記事は忍者豆知識その28です。今日は真田氏と関係のある武田氏が攻めたお城と、お城の要素についてお届けします。
・高遠城(たかとうじょう)
高遠城は、現在の長野県伊那市高遠町にあったお城です。
高遠氏の居城でしたが、武田氏に攻められて開城します。
武田信玄の家臣であった山本勘助が縄張りにした堅城でした。
跡地には高遠城址公園があり、桜の名所として有名です。
・天守についてその2、天守の歴史
戦国時代(1467年-1615年)、天守は戦国大名によって建てられ、城の防御機能と共にその権力を誇示する目的がありました。
織田信長が築いた安土城の天守が代表例で、天守の普及に大きな影響を与えました。
江戸時代(1603年-1868年)、江戸幕府の統治下で全国的に平和な時代が続き、天守は実戦用よりも権威の象徴としての役割が強まりました。
各地の大名が競って立派な天守を築くようになり、現在でも多くの名城がその姿を留めています。
天守の役割として、敵の侵入を防ぎ、籠城戦に備えるための要塞としての機能を持ちます。
高い位置からの監視や攻撃が可能で、城全体の防御システムの中核を成します。
監視機能として、城下や周囲の地域を見渡すための見張り台としての機能も果たします。
敵の動きを早期に察知するために重要な役割を担います。
権威の象徴として、城主の権力と威信を示すために、豪華な装飾や大規模な構造が採用されることが多いです。
城下町や領民に対する威圧的なシンボルとしての役割を果たします。
天守は日本の歴史や文化を深く象徴する建築物であり、その美しさと機能性は現在でも多くの人々を魅了しています。
・城門についてその1、戦国時代と江戸時代の城門
戦国時代や江戸時代の城門は、日本の城郭の防衛構造の中で非常に重要な役割を果たしていました。城門は単なる出入り口ではなく、敵の侵入を防ぐための防御機能が施された複雑な構造を持つことが多かったです。
城門の役割として、城門は敵の侵入を防ぐために頑丈に作られておりました。これにより、敵が一度に多数で門を突破することが難しくなっていました。
城門はまた、城への出入りを監視し、管理する場所でもありました。城内に入る者は門で確認を受ける必要がありました。
・代表的な城門の種類
枡形門(ますがたもん)は二重の門で構成され、門と門の間に枡形と呼ばれる四角形の空間が設けられていました。敵が最初の門を突破した場合、この枡形で囲まれ、四方から攻撃を受ける構造になっていました。
薬医門(やくいもん)は左右に柱が立ち、その上に屋根がかかる形式の門です。屋根が大きく突出しており、荘厳な印象を与えます。この門は主に城郭の内側や大名屋敷の玄関として使用されることが多かったです。
櫓門(やぐらもん)は門の上に櫓(やぐら)が設置されたもので、城内外の監視や防衛のために用いられました。この門は攻撃に対する防御力を高めるために作られており、城の重要な部分に設けられることが多かったです。