2024年11月9日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その19 -沼田城-[11月9日更新]

この記事は忍者豆知識その19です。今日は真田氏と関係のあるお城と、にんぱくの忍者道具についてお届けします。
・真田氏と関係のあるお城・沼田城について
沼田城は、1532年に沼田顕泰により築城されました。


沼田は戦国時代に、北関東の軍事拠点として争奪戦が行われました。
上杉氏、後北条氏、武田氏らが争ったと言われています。
本能寺の変後は真田氏が治めたとされています。
発掘調査で、お城の本丸には堀や櫓(やぐら)があったと言われています。
沼田城のあった場所は現在公園になっています。
沼田公園内には、沼田城を治めていた真田信之と妻小松姫の石像もあります。

沼田公園入り口
沼田市観光案内所(公園内にあります)
真田信之・小松姫像(二人揃っている石像です)
西櫓台・石垣(ここは道が細くこの先は立ち入り禁止になっていました)
天守跡
鐘楼(鐘を鳴らす場所だと思いますが、中はどうなっているんだろう…)

・にんぱくの忍者道具の紹介・卍(まんじ)手裏剣



手裏剣の一つですが、この手裏剣は四方向に先がありますが形状が卍型の形をしている手裏剣です。
卍型手裏剣(まんじがたしゅりけん)は、伝統的な日本の手裏剣術で使用される一種の手裏剣です。この手裏剣は、名前の通り、卍(まんじ)またはスワスティカの形をしており、その独特の形状により特定の利点があります。
卍型手裏剣は中心から放射状に4本の刃が伸びた形をしており、卍またはスワスティカの形状に似ています。
各刃は鋭利であり、どの方向に投げても刺さりやすいように設計されています。
材質は鉄や鋼などの金属で作られることが一般的で、耐久性が高いです。
投擲武器として使用され、手裏剣術の一環として訓練されます。
特定の角度や力加減で投げることで、回転しながら飛び、相手に刺さりやすくなります。
卍型手裏剣は、投げられた際に回転することで飛行の安定性が増し、正確にターゲットに当たりやすくなります。
多方向からの刺さりやすさで、どの角度からでも刺さりやすい形状のため、命中率が高くなります。
独特の形状と飛び方が相手に対して心理的な威圧感を与えることができます。
卍型手裏剣は、主に忍者や武士によって使用されました。忍者は、奇襲やスパイ活動を行う際に、このような手裏剣を隠し持ち、敵に対して迅速かつ静かに攻撃するために用いました。また、武士も手裏剣術の一環として訓練を行い、防御や攻撃の手段として使用されていました。
現代においても、卍型手裏剣は武道の訓練やコレクションアイテムとして人気があります。手裏剣術を学ぶ際の道具として、または歴史的な武器としての魅力を持っています。
卍型手裏剣は、その形状と機能から、手裏剣術の中でも特にユニークな存在であり、多くの人々に興味を持たれています。

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2024年11月8日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その48 -矢沢城-

この記事は忍者豆知識その48です。今回は真田氏と関係のあるお城についてお届けします。



・矢沢城(やざわじょう)
矢沢城は、長野県上田市にあった戦国時代の城で、真田氏の一族が守った重要な拠点の一つです。特に、真田氏の真田幸隆の弟である矢沢頼綱(または綱頼)の居城として知られています。矢沢氏は、真田氏を支える重臣としてその影響力が大きく、この城も上田城を防衛するための支城として機能しました。

城は山城の形式で、自然の地形を活かした防御に優れた構造を持っていました。築城時期は正確には不明ですが、上田城と連携しつつ、真田家の勢力を周囲に広げるための拠点であったと考えられています。また、上田城で真田氏が徳川軍と戦った際には、矢沢城もその防衛の一端を担った可能性があります。
第一次上田合戦時には、矢沢頼綱の子頼幸が城を守っていたとされます。
真田信之が松代に移封された後、矢沢城は廃城になりました。

現在は城跡として、当時の石垣や土塁の一部が残り、散策が楽しめる場所になっています。
ここ周辺には桜の木があり春には満開になります。歴史ファンにとっては、真田一族の戦略やその拠点の一つとしての役割を感じることができるスポットです。

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2024年11月3日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その47 -小諸城-

この記事は忍者豆知識その47です。ここでは真田氏や真田氏の関係のある武田氏のお城についてお届けします。

・小諸城(こもろじょう)
小諸城は、長野県小諸市にある日本の歴史的な城で、戦国時代から江戸時代にかけて重要な役割を果たしました。この城は特に「懸造り(かけづくり)」と呼ばれる独特の構造で知られています。また、城跡は現在「小諸城址 懐古園(かいこえん)」として一般公開され、観光名所となっています。

・歴史
小諸城の築城は15世紀頃、戦国時代初期にさかのぼります。最初に築城したのは、信濃の豪族・大井氏とされていますが、戦国時代には様々な有力者が支配し、最終的には仙石秀久が城の大規模な改修を行ったと言われています。

1561年、武田信玄が川中島の戦いで上杉謙信と戦った際、小諸城は武田家の信濃支配の拠点の一つとなりました。その後、武田家の滅亡を経て、江戸時代に徳川幕府の支配下に入り、譜代大名が城主として入城しました。

特に、仙石秀久が城主となった際に大規模な改修が行われ、現在見られる城の姿が形作られました。小諸城はその後も江戸時代を通じて重要な役割を果たし、明治時代の廃城令により廃城となりました。

・城の構造と特徴
小諸城の特徴的な点は「穴城(あなじろ)」と呼ばれる独特の立地です。通常、城は高台に築かれることが多いですが、小諸城は城の大部分が低地に築かれ、千曲川(ちくまがわ)の崖を利用した「懸造り」という防御構造を取り入れています。これにより、攻めにくく守りやすい構造を持つ城となっていました。

城郭の内部には、本丸、二の丸、三の丸といった構造があり、現在も石垣や堀、土塁の一部が残されています。特に「三之門(さんのもん)」は城郭の中でも美しい門の一つとして知られており、今でもその威厳を感じさせます。

・小諸城址 懐古園
小諸城の跡地は、現在「懐古園」として整備され、国の史跡に指定されています。園内には桜や紅葉が美しい場所として知られ、観光地としても人気です。また、園内には旧城郭の遺構だけでなく、動物園や美術館もあり、四季折々の自然と歴史が楽しめる場所です。

小諸城は歴史的な価値と美しい景観を併せ持ち、長野県を訪れる際には見逃せないスポットです。

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2024年11月1日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その46 -砥石米山城-

この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・砥石米山城(といしこめやまじょう)
砥石米山城は、現在の長野県上田市上野にあったお城です。
砥石米山城(といしこめやまじょう)は、長野県に位置する戦国時代の山城です。特に武田信玄と村上義清との戦いで知られ、信濃国(現在の長野県)における重要な拠点の一つでした。
鎌や包丁を研ぐ砥石が多く取れたことからつけられた名前だと言われています。

・歴史と背景
砥石米山城は、北信濃の豪族である村上義清の支配下にありました。村上氏はこの城を拠点にし、武田信玄との戦いに備えていました。この城の名を有名にしたのは、1550年に武田信玄が砥石城を攻めた「砥石崩れ」と呼ばれる戦いです。この戦いで、武田軍は大敗を喫し、多くの武将が戦死しました。この戦いは武田氏にとって大きな痛手となり、信玄の軍事的な勢力拡大に大きな影響を与えました。

その後、武田信玄は戦略を練り直し、武田の配下となった真田幸綱によって、1551年に村上義清を再度攻め、最終的に村上氏は城を失い、砥石米山城は武田氏の手に落ちました。

・城の構造
砥石米山城は、砥石城と米山城の二つの城郭から成る連郭式の山城です。自然の地形を活かしており、険しい山の斜面に築かれた堅固な防御構造が特徴でした。これにより、敵軍の侵入を防ぎ、持久戦に耐えることが可能でした。

・現在の状況
現在、砥石米山城の跡は史跡として保存されており、城跡には土塁や堀切などの遺構が残っています。地元の歴史愛好家や戦国時代の研究者にとっては、興味深い観光地や学びの場となっています。

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2024年10月21日

レーザーNRUKOシステム障害

現在、レーザートラップゲームのレーザーNARUKOがシステム障害のため、復旧へ向けてお休みしております。2階は鈴をつけたロープのタイムアタックを開催しています。

現在の2階の様子です

レーザー光線は出ませんが、楽しいトラップゲームとなっておりますので、皆様のご来館をお待ちしております。

2024年10月18日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その45 -染屋城-

この記事は忍者豆知識その45です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。



・染屋城(そめやじょう)
染屋城は、現在の長野県上田市古里にあったお城です。
染屋城は、長野県にかつて存在した中世の山城です。一般的にはあまり知られていない城ですが、信濃国(現在の長野県)の一部として、戦国時代の激しい戦闘や領地争いの中で利用された可能性があります。
現地では遺構が確認されており、地域史や戦国時代の研究者の関心を集めています。
このお城は真田氏の城の上田城の東に位置し、真田氏家臣の大熊氏がこの城を居城としたと言われています。
また第二次上田合戦の時には、徳川秀忠がこの城を中心に本陣を置いたと言われています。


徳川秀忠が第二次上田合戦の際に「染屋台」に本陣を置いたとも伝えられており、上田城下を見渡せる重要な拠点だったとされています。
遺構の二の郭からは、千曲川対岸の山々が見えます。
現在の城跡には豊染英神社(とよそめはなぶさじんじゃ)があります。

染屋城の具体的な築城年や築城者については明確ではないものの、地元の有力な領主によって守られていたと考えられています。現在では城跡として残り、一部の遺構や地形からその位置や規模が推定されています。

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2024年10月18日

臨時休業の訂正と特別営業日について

10月21日に臨時休業のお知らせをいたしましたが、訂正いたします。10月21日は通常通り開館いたします。

また、10月29日は特別営業いたします。予約は午後のみ可能です。

皆様のご来館をお待ちしております。

2024年10月17日

臨時休業のお知らせ

2024年10月21日、にんぱくは臨時休業いたします。

ご来館をご予定していた方には申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

2024年10月14日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その44 -鎌原城-

この記事は忍者豆知識その44です。この記事では、真田氏、武田氏と関係したお城についてお届けします。


・鎌原城(かんばらじょう)

鎌原城は、群馬県吾妻郡嬬恋村にかつて存在した日本の中世の城です。鎌原城はその戦略的な位置や歴史的な背景から、戦国時代に大きな役割を果たしました。

・鎌原城の概要
築城者: 鎌原氏とされていますが、具体的な築城年についてははっきりしていません。
所在地: 群馬県吾妻郡嬬恋村
構造: 山城。山の地形を利用して築かれた城で、自然の要害を活かした防御が特徴です。
・鎌原城の歴史
鎌原城は、関東地方の戦国時代において重要な役割を果たした城です。特に、上杉謙信や北条氏といった関東の強豪たちの争いに関わり、地域の支配をめぐる攻防の中心となりました。

鎌原城城主の鎌原幸重は、真田氏を通じて武田信玄に仕えていたとされます。
鎌原氏は、この地域の土豪として、やがて北条氏や武田氏との関係も複雑に絡み合っていきました。

戦国時代の終わりにかけて、徳川家康の関東進出後、城の役割は徐々に減少し、時代とともに廃城となりました。

・鎌原城の特徴
立地: 鎌原城は、山の中腹に築かれており、急峻な地形を利用した防御が可能でした。このため、攻めづらく守りやすい城として知られていました。防御に適した構造は、戦国時代の山城に多く見られる特徴です。
構造: 山城としては比較的小規模で、城郭の配置等、天然の地形を利用した防御力に優れていました。また、周囲には堀や土塁などの防御施設が設けられていました。
・現在の鎌原城
現在、鎌原城跡は嬬恋村の観光地となっており、城跡の遺構が残されています。城跡を訪れると、土塁や堀などの中世山城の特徴的な遺構を見学することができます。また、城跡周辺は自然に囲まれており、美しい景観が広がっています。

鎌原城跡は、日本の戦国時代の歴史に触れ、山城の構造や防御戦術に興味を持つ方にとって、訪れる価値のある場所となっています。

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2024年10月11日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その43 -高根城-

この記事は忍者豆知識その43です。この記事では真田氏と関係のある武田氏が改修したお城についてお届けします。


・高根城(たかねじょう)
現在の静岡県浜町市天竜区水窪にあったお城です。
築城者は奥山定則です。
武田氏と姻戚関係にあった遠山氏によって攻め落とされた後、武田氏がお城の改修をして拠点にしたと言われています。
高根城は、戦国時代に築かれた山城で、現在の静岡県浜松市天竜区に位置します。この城は、戦国大名・武田信玄が遠江国(現在の静岡県西部)への侵攻の拠点として活用したことで知られています。

・高根城の歴史
高根城は、遠江国の山間部にあり、戦略的な位置に築かれました。標高420メートルの高根山の頂上にあるこの山城は、周囲の地形を活かして守りを固めた典型的な山城です。戦国時代には、この地域は徳川家康と武田信玄の争いの重要な戦場の一つでした。

武田信玄は、遠江国において織田信長と同盟を結んだ徳川家康との対立を深め、家康の勢力を抑えるために遠江北部に攻勢をかけました。高根城はその際に築かれ、武田軍の拠点として機能しました。

・高根城の構造
高根城は、山の自然地形を利用して築かれた堅牢な城でした。山城のため、外郭や堀、土塁が複雑に配置されており、城全体を防御するための強固な構造が特徴です。頂上部分には本丸が設けられ、その周囲に複数の郭(くるわ:城内の防御区画)が配置されていました。

また、眺望の良さも高根城の大きな特徴で、遠江国全域を見渡すことができたため、戦略的な視点でも重要な拠点となりました。この地の地形を生かし、周囲の山々との連携を取りやすい構造になっていたことが、戦国時代における軍事的な有効性を高めました。

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