2024年12月2日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その6 -岩櫃城とにんぱくの展示物-【12月2日更新】

今日は忍者豆知識その6をお届けします。今日は真田氏に関係する岩櫃城や真田忍者についてお送りします。

・忍者豆知識 岩櫃城(いわびつじょう)について
岩櫃城は、群馬県吾妻郡東吾妻町に位置する日本の中世山城です。岩櫃城は岩櫃山の中腹に作られたお城です。
戦国時代に築かれたこの城は、上杉謙信、武田信玄、そして真田氏といった名だたる戦国大名たちの争奪戦の舞台となりました。以下に岩櫃城の概要を紹介します。


岩櫃城は、鎌倉時代に築かれた説や14世紀後半に築かれたとされていますが、築城年や、築城者については諸説あると言われています。
戦国時代には、上杉謙信に従う斉藤氏と武田信玄に従う真田氏が岩櫃城を巡って争いました。その後、武田氏の配下であった真田幸隆が城主となり、真田氏の拠点の一つとして重要な役割を果たしました。
関ヶ原の戦いの後、江戸幕府の成立とともに城は廃城となりました。
岩櫃城は山の中腹に築かれた山城であり、自然の地形を活かした防御に優れた構造が特徴です。
城は幾つかの郭(曲輪)で構成されており、主要な郭である本丸、二の丸、三の丸が存在します。現在では城跡が保存されており、石垣や堀の遺構を見ることができます。
岩櫃城跡は、国の史跡に指定されており、観光地としても人気があります。特に春には桜が美しく、ハイキングコースとしても訪れる人々が多いです。
岩櫃城の歴史や構造についてさらに詳しく知りたい場合は、地元の博物館や観光案内所を訪れると良いでしょう。また、歴史書や専門書を読むことで、より深い理解を得ることができます。
岩櫃山は、群馬県吾妻郡東吾妻町にある標高802.6メートルの山で、吾妻八景の一つとして知られています。
観音山の不動堂など回れるスポットが多くあり、様々な登山コースが楽しめます。

岩櫃山平沢登山口観光案内所(別の登山口もあります)
岩櫃神社(岩櫃山の山中にあります)
出浦渕入り口
出浦渕は一つ前の写真の場所から沢をしばらく下っていた先にあります。沢は落下に十分に注意してください。
古谷登山口入り口
密岩神社
密岩神社からは岩櫃山の岩肌がよく見えます。

・忍者豆知識 横谷左近(よこやさこん)
横谷左近は、真田忍者として知られています。真田十勇士の猿飛佐助のモデルになったと言われています。
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、特に真田氏に仕えたことで知られています。
武田信玄に仕えていた真田幸隆の配下として、岩櫃城を攻略し、その守備を行いました。
横谷左近は岩櫃城の守備を担当し、城の防衛に大きく貢献しました。真田氏上州の拠点とする中で、岩櫃城の防御は非常に重要でした。真田氏に仕え様々な戦を参戦したと言われ、大阪の陣にも加わり真田幸繁と一緒に大阪城で戦ったと言われています。

・にんぱくの忍者道具の紹介
釘抜型手裏剣



全体が四角い形状で真ん中に穴が空いている手裏剣。

ブログ一覧へ

2024年12月1日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その51 -丸岩城-

この記事は忍者豆知識その51です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。


・丸岩城
丸岩城(まるいわじょう)は、今の群馬県吾妻郡長野原町横壁にあったお城です。群馬県吾妻郡に位置する中世の山城で、戦国時代に築かれたとされています。この城は、岩櫃山の東側斜面にあり、自然の地形を活かした堅固な作りが特徴です。以下に丸岩城についての詳細をまとめました。

・基本情報
所在地: 群馬県吾妻郡長野原町
築城時期: 戦国時代
築城者: 羽尾幸全とされています。
構造: 山城
・歴史
戦国時代の真田氏の支配下
丸岩城は、真田氏の支配地域である信濃国と上野国を結ぶ重要な拠点の一つでした。岩櫃城を中心とする吾妻地域の防衛線として機能していたと考えられます。武田氏滅亡後に、侵略する北条氏に対して真田昌幸が西吾妻地域の諸将を駐屯させたとされます。

・江戸時代以降
戦乱が終息すると丸岩城は廃城となり、その後は地元住民によって部分的に利用されたものの、大部分が自然の中に埋もれました。
・特徴
・自然の地形を活用
丸岩城は、急峻な岩場や尾根筋を活用した防御に優れた山城です。敵が攻め上がるのが非常に困難な構造になっています。
・遺構
曲輪(くるわ)、本丸虎口、堀切、土塁、などが一部残っていますが、山林に覆われているため視認が難しい箇所もあります。
・観光情報
丸岩城跡は、ハイキングや登山といった形で訪れることができますが、整備状況は十分ではありません。山歩きの装備を整えて訪問することが推奨されます。
岩櫃山と合わせて訪れると、戦国時代の真田氏の防衛網を体感できます。
・アクセス
最寄り駅: JR吾妻線「長野原草津口駅」から2.3キロ
車: 周辺に駐車場がある場合もありますが、登山口までの案内板が少ない場合もあるため、事前の地図確認が必要です。

ブログ一覧へ

2024年11月18日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その50 -白井城-

この記事は忍者豆知識その50です。この記事では真田氏と関係のあるお城についてお届けします。

・白井城(しらいじょう)
白井城は、現在の群馬県渋川市にあったお城です。
長尾景仲によって築かれたとされています。
白井城は、戦国時代に重要な役割を果たした山城です。元々は白井長尾氏の居城でしたが、武田信玄の西上野侵攻で1567年に一度落城。
白井長尾氏は、関東管領家(上杉氏)との強い結びつきを持ち、群馬県北部一帯に勢力を築いていました。
その後、白井長尾氏が奪還しますが、上杉景勝と後北条氏の争いで支配権が転々とします。
真田氏(幸隆)と白井氏がこの城で争っていたとされます。


1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で開城し、その後1624年に廃城となりました。現在は城址の一部が史跡として整備され、土塁や堀の跡が残されています。
・土塁と堀
土塁や堀の一部は現存しており、当時の防御技術の高さを感じることができます。
・城跡からの景色
山城らしく、城跡からは渋川市周辺の景色を一望できます。
・ハイキングコース
白井城跡を巡るハイキングコースは、地元の人々や観光客に親しまれています。
・・アクセスと施設
・最寄り駅
JR渋川駅からバスまたはタクシーでアクセスできます。
・施設:
城跡近くには案内板や簡易な休憩スペースがあります。

ブログ一覧へ

2024年11月15日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その49 -下野小屋城-

この記事は忍者豆知識その49です。この記事では真田氏と関係のある武田氏についてお届けします。


・下小屋城(しものこやじょう)
下小屋城は、群馬県渋川市に位置する戦国時代の山城です。1572年(元亀3年)、甲斐の武田勢の侵攻に備え、伊香保地域の豪族たち(伊香保地衆)によって築かれたとされています。この城は専守防衛を目的とし、南北に川が囲む天然の要害を活かした立地が特徴です。
上杉氏、武田氏、北条氏がこの城を争っていたとされます。
下小屋城は、南に西沢川、北に沼尾川という2つの川に挟まれた舌状台地の上に築かれています。主郭(本丸)と下郭に分かれ、石垣や土塁、堀切などの遺構が見られます。特に城の虎口(入り口)の部分には、当時関東では珍しい比較的大きな石を用いた石垣が残されています。

現在、城跡は渋川市から伊香保温泉に至る地域にあり、温泉観光とあわせて訪れることが可能です。ただし、アクセスには車が便利で、最寄りの登城口から少し歩く必要があります。自然の崖や急斜面が多いため、散策の際には注意が必要です。

このように、下小屋城は歴史的な価値と自然の美しさを兼ね備えたスポットであり、訪れると戦国時代の防衛戦略を感じ取ることができるでしょう。

ブログ一覧へ

2024年11月10日

各地の忍びの呼び方|にんぱくブログ|体験

NINJA

戦国時代は忍者がもっとも活躍した時代と言えます。乱世の時代だからこそ、忍者のような存在は各地の大名にとって重要な存在でした。この記事では各地で、忍者がどのような呼び方をされていたのかご紹介します。

忍者という呼び方

忍者という呼び方が一般に広く定着したのは、昭和30年代くらいとされています。主に小説などを通して広まりました。
戦国から江戸にかけて、忍者は地域ごとに、さまざまな呼び方がありました。

東北

・草(くさ)
・早道之者(はやみちのもの)
・間盗役(かんとうやく)
・黒脛巾組(くろはばきぐみ)

戦国時代
主に忍びは「草」と呼ばれ、諜報活動するだけでなく、草むらに潜んで待ち伏せする作戦をとるような、戦闘集団でもありました。
津軽地方(青森西部)の津軽氏には、甲賀流を源流とする忍びがいて、「早道之者」と呼ばれていました。南部地方(青森・岩手)の南部氏には「間盗役」と呼ばれる忍び集団がいました。
仙台(宮城)の伊達氏は、「黒脛巾組」と呼ばれる忍び集団を抱えて情報種集を行なっていました。

関東

・乱波(らっぱ)
・草(くさ)
・かまり
・風間(かざま・風魔とも)
・隠密(おんみつ)

戦国時代
主に忍びは「乱波」と呼ばれていたほか、「草」「かまり」などよも呼ばれていました。
相模(神奈川)の北条氏は、「風間」という忍びの集団を抱えていたとされています。そのリーダーを風魔小太郎(こたろう)と呼んでいました。

江戸時代
伊賀忍者、甲賀忍者を構成員とし、「隠密」と呼ばれる公設機関が作られました。8代目将軍吉宗の時代には、諜報機関として、御庭番が設けられ、隠密として捜索活動を行っていました。

甲信越

・透波(すっぱ)
・かまり
・夜盗組(やとうぐみ)
・伏齅(ふしかぎ)
・三ツ者(みつもの)

戦国時代
信州(長野)・甲斐(山梨)には透波、かまりなどと呼ばれる忍び集団がいました。
越後(新潟)の上杉氏は、夜盗組や伏齅と呼ばれる忍びを使っていました。川中島の戦いで活躍したと言われています。
甲斐の武田氏は、三ツ者という忍びや、信濃からの透波を使っていたとされています。

北陸

・偸組(ぬすみぐみ)

戦国時代
加賀(石川)の前田家は偸組と呼ばれる忍び集団を使っていました。

中部

・饗談(きょうだん)

戦国時代
尾張(愛知)の織田氏には、饗談と呼ばれる忍びの集団がいたとされています。

近畿

・伊賀者
・甲賀者
・奪口(だっこう)
・根来衆(ねごろしゅう)
・雑賀衆(さいかしゅう)

南北時代
河内(大阪)の楠木正成は、忍びの源流とされる悪党のひとりとされ、南朝側に立ってゲリラ戦を展開しました。

戦国時代
甲賀(滋賀)や伊賀(三重)の忍び集団は、周辺各地で活躍し、伊賀者・甲賀者などと呼ばれました。
河内には、楠木流が伝わり、奪口と呼ばれる忍び集団がいました。
紀伊(和歌山)には、根来寺の僧兵の根来衆や、雑賀衆と呼ばれる鉄砲で武装した集団がいました。

中国・四国

・外聞(とぎき)
・鉢屋衆(はちやしゅう)
・座頭衆(ざとうしゅう)

戦国時代
主に忍びの呼称として、外聞が使われていました。
出雲(島根)の尼子氏は、鉢屋衆と呼ばれる忍び集団を使っていました。

九州

・関やぶり
・山潜り(やまくぐり)

戦国時代
肥後(熊本)の加藤氏は、関やぶりと呼ばれる忍び集団を使っていました。
薩摩(鹿児島)の島津氏は、山潜りと呼ばれる忍び集団を使っていました。

終わりに

このブログを運営しているにんぱくには、忍者が実際に使っていた忍具が展示されています。群馬県の北西にある東吾妻町に、にんぱくはあります。吾妻地域は真田氏が支配していたころ、忍びの者として真田家に仕えていた忍者がいました。岩櫃城と言えば歴史好きの方はピンと来るかもしれません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。これからもにんぱくをよろしくお願いいたします!

ブログ一覧へ

2024年11月10日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その18 -名胡桃城-[11月10日更新]

この記事は忍者豆知識その18です。今日は真田氏と関係したお城とにんぱくの展示品についてお届けします。
・真田氏と関係のあるお城・名胡桃城(なぐるみじょう)について
真田氏が関係したお城として水上の名胡桃城があります。
群馬県利根郡みなかみ町下津にかつてあったお城で、1949年(昭和24年)に「名胡桃城址(なぐるみじょうしあと)」として群馬県指定史跡に指定されました。
築城時期は、室町時代の明応元年(1492年)と言われています。


武田氏(武田勝頼)が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築いたお城です。
真田氏と北条氏との戦いで、沼田城の支城として使用され、沼田領で北条氏を退けたと言われています。
小田原征伐後に廃城となり、実際に使用されたのは10年間ほどと言われています。
水上の名胡桃城址案内所から上毛高原駅(水上の駅)までは距離が近いです。

名胡桃城看板
名胡桃城跡案内所
丸馬出し
名胡桃城跡石碑
一番奥のささ郭から景色が一望できます。
ささ郭にあった祠

・にんぱくの展示物の紹介・仕込み煙管



一見すると煙草を吸うための煙管に見えますが、この中には刃物が隠されています。
主に忍者がターゲットを暗殺するために使用していたと思われます。
仕込み煙管(しこみきせる)は、江戸時代の忍者や隠密が使っていた隠し武器の一つです。通常の煙管(たばこを吸うための細長いパイプ)に見えますが、実際には内部に刃物や針などの武器が仕込まれていることが特徴です。
仕込み煙管の特徴・外観として、通常の煙管と見た目はほとんど変わらないため、敵に対して不意打ちが可能です。
銅や鉄などの金属で作られることが多く、丈夫です。
内部の仕掛けとして、煙管の内部に細い刃物や針、毒などが仕込まれていることが多いです。
刃物や針は、スライドさせたり、ひねったりすることで取り出せるような仕組みになっています。
用途は、敵を奇襲するための武器として使用されます。
近距離での戦闘や防御に適しています。
忍者は、目立たないようにするために、日常的な物品に武器を隠すことがよくありました。仕込み煙管もその一つで、見た目では武器とわからないため、日常生活に溶け込むことができます。また、敵に対して油断を誘い、不意打ちを仕掛けるための重要な道具として使われていました。
実際の使用方法としては、通常の煙管として普段は通常の煙管として使用し、敵の警戒を解く。
戦闘時には、敵が油断した瞬間に内部の刃物や針を取り出し、攻撃を加える。
素早く元の状態に戻し、再び煙管として使うことも可能です。
このように、仕込み煙管は忍者や隠密にとって非常に便利で効果的な武器でした。興味深いことに、現在でも一部の時代劇や歴史ドラマで仕込み煙管が登場し、その魅力を伝えています。

ブログ一覧へ

2024年11月9日

Notice of Year-End and New Year Closure

Thank you to everyone who has visited or is considering a visit to Ninpaku.

Please be advised of our upcoming Year-End and New Year closure. Ninpaku will be closed during the following period:

December 28, 2024 – January 3, 2025

Thank you for your understanding.

2024年11月9日

年末年始休館のお知らせ

にんぱくにご来館いただいた方、ご来館をご検討されている皆様、ありがとうございます。

年末年始の休館のお知らせです。下記の期間、にんぱくは休館いたします。

2024年12月28日〜2025年1月3日

よろしくお願い申し上げます。

2024年11月9日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その19 -沼田城-[11月9日更新]

この記事は忍者豆知識その19です。今日は真田氏と関係のあるお城と、にんぱくの忍者道具についてお届けします。
・真田氏と関係のあるお城・沼田城について
沼田城は、1532年に沼田顕泰により築城されました。


沼田は戦国時代に、北関東の軍事拠点として争奪戦が行われました。
上杉氏、後北条氏、武田氏らが争ったと言われています。
本能寺の変後は真田氏が治めたとされています。
発掘調査で、お城の本丸には堀や櫓(やぐら)があったと言われています。
沼田城のあった場所は現在公園になっています。
沼田公園内には、沼田城を治めていた真田信之と妻小松姫の石像もあります。

沼田公園入り口
沼田市観光案内所(公園内にあります)
真田信之・小松姫像(二人揃っている石像です)
西櫓台・石垣(ここは道が細くこの先は立ち入り禁止になっていました)
天守跡
鐘楼(鐘を鳴らす場所だと思いますが、中はどうなっているんだろう…)

・にんぱくの忍者道具の紹介・卍(まんじ)手裏剣



手裏剣の一つですが、この手裏剣は四方向に先がありますが形状が卍型の形をしている手裏剣です。
卍型手裏剣(まんじがたしゅりけん)は、伝統的な日本の手裏剣術で使用される一種の手裏剣です。この手裏剣は、名前の通り、卍(まんじ)またはスワスティカの形をしており、その独特の形状により特定の利点があります。
卍型手裏剣は中心から放射状に4本の刃が伸びた形をしており、卍またはスワスティカの形状に似ています。
各刃は鋭利であり、どの方向に投げても刺さりやすいように設計されています。
材質は鉄や鋼などの金属で作られることが一般的で、耐久性が高いです。
投擲武器として使用され、手裏剣術の一環として訓練されます。
特定の角度や力加減で投げることで、回転しながら飛び、相手に刺さりやすくなります。
卍型手裏剣は、投げられた際に回転することで飛行の安定性が増し、正確にターゲットに当たりやすくなります。
多方向からの刺さりやすさで、どの角度からでも刺さりやすい形状のため、命中率が高くなります。
独特の形状と飛び方が相手に対して心理的な威圧感を与えることができます。
卍型手裏剣は、主に忍者や武士によって使用されました。忍者は、奇襲やスパイ活動を行う際に、このような手裏剣を隠し持ち、敵に対して迅速かつ静かに攻撃するために用いました。また、武士も手裏剣術の一環として訓練を行い、防御や攻撃の手段として使用されていました。
現代においても、卍型手裏剣は武道の訓練やコレクションアイテムとして人気があります。手裏剣術を学ぶ際の道具として、または歴史的な武器としての魅力を持っています。
卍型手裏剣は、その形状と機能から、手裏剣術の中でも特にユニークな存在であり、多くの人々に興味を持たれています。

ブログ一覧へ

2024年11月8日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その48 -矢沢城-

この記事は忍者豆知識その48です。今回は真田氏と関係のあるお城についてお届けします。



・矢沢城(やざわじょう)
矢沢城は、長野県上田市にあった戦国時代の城で、真田氏の一族が守った重要な拠点の一つです。特に、真田氏の真田幸隆の弟である矢沢頼綱(または綱頼)の居城として知られています。矢沢氏は、真田氏を支える重臣としてその影響力が大きく、この城も上田城を防衛するための支城として機能しました。

城は山城の形式で、自然の地形を活かした防御に優れた構造を持っていました。築城時期は正確には不明ですが、上田城と連携しつつ、真田家の勢力を周囲に広げるための拠点であったと考えられています。また、上田城で真田氏が徳川軍と戦った際には、矢沢城もその防衛の一端を担った可能性があります。
第一次上田合戦時には、矢沢頼綱の子頼幸が城を守っていたとされます。
真田信之が松代に移封された後、矢沢城は廃城になりました。

現在は城跡として、当時の石垣や土塁の一部が残り、散策が楽しめる場所になっています。
ここ周辺には桜の木があり春には満開になります。歴史ファンにとっては、真田一族の戦略やその拠点の一つとしての役割を感じることができるスポットです。

ブログ一覧へ