2024年9月6日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その35

この記事は忍者豆知識その35です。今回は真田氏と関係のある武田氏が滅んだ戦いについてお届けします。

・天目山の戦い(てんもくざんのたたかい)
天目山の戦いは、1582年(天正10年)に起きた、織田信長の甲州征伐(武田討伐)に対する武田勝頼の最期の抵抗戦です。この戦いで、武田勝頼は織田信長の大軍に敗れ、武田家は滅亡しました。天目山の戦いは、戦国時代における有力な戦国大名であった武田家の終焉を象徴する戦いとされています。

・織田信長の甲州征伐
1575年(天正3年)の長篠の戦いで、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に敗北し、武田家の軍事力は大きく弱体化しました。その後、織田信長は武田氏の領国である甲斐(山梨県)や信濃(長野県)を狙い、圧力を強めました。
1582年(天正10年)、信長は武田家の滅亡を決定し、甲州征伐を開始しました。織田軍は、織田信忠(信長の嫡男)を総大将とし、徳川家康や北条氏政らの協力を得て、総勢5万を超える大軍を武田領に侵攻させました。
・武田勝頼の窮地
織田軍の侵攻に対して、武田勝頼は兵力も不足しており、さらに重臣たちの裏切りや家臣の離反が相次ぎ、信頼できる家臣も少なくなっていました。また、信長の強力な軍勢が押し寄せる中、甲斐・信濃の武田領国では次々と城が落ち、武田家の領土は急速に失われていきました。
・天目山の戦いの経過
敗走と追い詰められる武田勝頼
武田勝頼は、織田軍の進撃に抗しきれず、最終的に甲斐国の西端、天目山(現在の山梨県甲州市)の田野にある岩殿山(いわどのやま)城を目指して落ち延びます。しかし、城主の小山田信茂が勝頼を裏切り、城門を開かないばかりか織田軍に降伏します。
勝頼は行き場を失い、甲斐国の天目山へと逃れるも、織田軍の追撃に追い詰められます。天目山で最後の決戦を試みるも、織田軍の包囲が完成し、抵抗は絶望的な状況となりました。


・武田勝頼の最期
勝頼は、妻(北条氏政の娘)や嫡男・信勝(のぶかつ)、側近の武将たちとともに天目山で最期を迎えることを決意します。彼らは最期まで奮戦したものの、圧倒的な数の織田軍に包囲され、逃げ場を失いました。
1582年3月11日、武田勝頼は天目山の麓で、妻子とともに自害し、武田家はここに滅亡しました。

・武田家の滅亡
天目山の戦いで武田勝頼が自害し、武田家は事実上の滅亡を迎えました。信玄の時代に一大勢力を誇った武田家が滅びたことで、信長の支配領域はさらに拡大し、彼の権威が一層強固なものとなりました。
・織田信長の支配強化
織田信長は、武田家の滅亡を契機に、甲斐・信濃の支配を強化し、その影響力を東国(関東地方)にまで及ぼすことが可能になりました。
・地域の不安定化とその後の動向
武田家の滅亡後、甲斐・信濃などの旧武田領は一時的に織田家や徳川家によって支配されることになりましたが、信長が同年に本能寺の変で死去したため、その後の地域の支配は再び混乱をきたしました。最終的に徳川家康がこの地域を平定し、江戸幕府成立の布石となりました。
天目山の戦いは、武田家の終焉を告げる重要な戦いであり、戦国時代における大きな転機の一つとなりました。武田信玄が築き上げた名門の武田家の滅亡と、それに伴う戦国大名たちの勢力の再編は、その後の日本の歴史に深い影響を与えました。

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