2024年5月23日

忍術〜山の歩き方編〜|にんぱくブログ|体験

NINJA

現代の日本では、レジャー以外で山道を歩く機会はあまりないのではないでしょうか?
忍者が活躍していた戦国時代は、山を越えるとき、峠道くらいしか人が歩けるようには整備されていませんでした。里でも人があまり足を踏み入れない山は身近にありました。忍者の重要な任務である諜報活動では、人目につかない道を歩く必要があるので、時には道ならざる道を歩いたのでしょう。忍者は生きて情報を持ち帰ることが任務です。忍術には攻撃に関する忍術はもちろんのこと、無事に帰る忍術もたくさんあります。

目次

  1. 見知らぬ山で道を見失ったときの忍術
  2. 道を覚える忍術
  3. 忍者の方位磁石
  4. 忍者の方位磁石を縫い針で検証

1.見知らぬ山で道を見失ったときの忍術

まず辺りを良く観察します。里へと続く重要な道は、人が頻繁に行き来するため、道にわらじの足跡や、牛馬の沓跡や糞がないか地面を見ます。そして、森の獣たちの様子も観察します。鳥やその他の動物が、人をひどく恐れないか? 恐れる場合、例えばすぐに鳥が飛び立つなどの場合は人通りが多い道という手掛かりになります。 そういった痕跡を探して、道を見つけます。
道の整備の状態から、里への距離を察することもできました。
切り株の切り口が新しかったり、草の生え方が段々になっていれば、人の手が入っているということになり、里が近いということです。

2.道を覚える忍術

山中を歩くときは、迷わず戻れるように道を覚えながら進みます。道を覚えるために、特徴ある植物や、景色を目印として記憶します。印象に残る物がなければ、自分で目印をつくります。「枝を折る」「ナタで木を傷つける」「足跡をつける」「足元の草を結んでおく」などです。
間違えて脇道に入ってしまい迷いかけたら、目印のある地点まですぐに戻ります。道なき道を行くなら、ただやみくもに進むのではなく、こまめに後方を確認。ひとつ前につけた目印がまだ視界に入る場所に、次の目印をつけていきます。

3.忍者の方位磁石

忍者は通常、太陽や北極星の動きを見て、方角を見極めていました。夜ならば星、昼ならば太陽。では曇り空や雨の場合はどうだったでしょうか。そんなとき、忍者は現代でいうところのコンパスのような道具を用いて、南北を知りました。当館のにんぱくには、実際に使われていた「耆著(きしゃく)」という道具が展示されています。

耆著を水に浮かべると、ゆっくりと回転して特定の方向を示します。南北のどちらを先端にするか、あらかじめ準備しておく必要があります。準備は、耆著屈を熱してすぐに冷やします。冷やすときに、先端を南に向けていれば尖ったほうがS極になります。耆著屈ではなく縫い針を用いることもできます。

4.忍者の方位磁石を縫い針で検証

用意するもの

  • 縫い針(鉄製)
  • 蝋燭
  • ライター
  • ピンセット
  • 水を入れる容器
  • 方位磁石(スマホのコンパスアプリで最初試しましたが、本物の方位磁石のほうが正確です)

スマホのコンパスアプリを起動して南がどちらにあるか把握しておきます。
縫い針をキュリー温度まで上げます。鉄のキュリー温度は770℃で、ライターの火が800℃くらいです。蝋燭は火の部分によって温度が違うのですが、だいたいはライターと同じくらいなので、蝋燭で縫い針を加熱します。火傷しないようにピンセットではさみ、先端からゆっくりスライドさせていきます。

ライターで熱しても良いのですが、熱するのにちょっと時間がかかるため、蝋燭のほうが安全です。

水の入った容器に熱した針をつけます。針先は南に向けて冷やします。

さて、きちんと南を指すようにS極になったか検証します。

うーん。特定の方向を指すようになりましたが、なぜか南ではありません。なぜ?
何度も針を熱して南に針先を向け冷やしても、指す方向は、南西の方角。

と、ここでコンパスの北と南の位置が変わりました!そしてそのスクリーンショットは撮り忘れました!針先の方角に南が移動したのですが、位置がこんなに移動するなんてこのスマホコンパスは信頼できません。それとも、この場所の磁場がおかしいのでしょうか? いや、何日か前に巨大な太陽フレアが発生してGPSなどに影響を与えるとありましたが、その影響・・・?

とここで一旦、手作りコンパスの検証を諦めかけましたが、翌日ダイソーで方位磁石を買ってきました。

これで再検証です。

ほとんど南を向いていると言っていいのではないでしょうか?しかし、冷やすときに、私は南ではなく東ほうへ針の先を向けていましたが、針先は南を指しています。どうやら、冷やす方向によって好き勝手に針先の方角を変えられるわけではないようです。そして実験から1日後でも、針はしっかりと方位磁石として機能していました。原理は後ほど調べてみます。

ということで検証は成功しました!

最後までお読みいただきありがとうございました。

にんぱくブログを今後もよろしくお願いいたします。
夏休みに自然あふれる吾妻の地で、忍者体験しませんか?

にんぱくはいつでも皆様のご来館をお待ちしております。

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2024年5月19日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その5 -唐沢玄蕃とにんぱくの展示物-

この記事は忍者豆知識その5です。今日は真田忍者についてのお話をお届けします。

・忍者豆知識 唐沢玄蕃(からさわげんば)
唐沢玄蕃は、上野国吾妻郡中之条沢渡出身の忍者で、父・杢之助(もくのすけ)と子・於猿(おさる)の二人で同じ名前を名乗っていたとされます。
武田氏に仕えた後に、真田氏に仕えました。杢之助の方は上野国嵩山城合戦(たけやまじょうかっせん)で死に、於猿が同じ名前を名乗りました。


唐沢玄蕃は中山城や尻高城(しったかじょう)など城を攻略し、真田軍の数々の合戦に参加したと言われています。
唐沢玄蕃の特技は、卓越した大きな跳躍力と火薬を使用した忍術でした。
例えば、尻高城攻略の際には、特技の火薬を使用した術を使い城を火の海にするなどの火計を行ったと言われています。

嵩山城は群馬県中之条町五反田字嵩山にあったお城です。戦国時代に国衆・吾妻斎藤氏の居城として利用されました。
武田氏と斎藤氏は当初は斎藤氏が武田氏に従属していましたが、お互いの所領問題が起きたことで武田氏から離反する形になりました。
武田氏・真田氏と斎藤氏が対立し、斎藤氏は抵抗しましたが、真田幸綱によって城を攻め落とされました。
その後、嵩山城は江戸時代には山伏の修行場となりました。
尻高城は、群馬県吾妻郡高山村尻高にあったお城です。白井城主の長尾重国が築いたお城で、武田氏の家臣であった真田幸綱(真田幸隆)が尻高氏と対立し、武田氏によってお城を攻め落とされたと言われています。
沢渡は、中之条町にある地名で、中之条町は、群馬県吾妻郡に位置する町で、沢渡温泉(さわたりおんせん)がその一部にあります。この地域は、自然豊かで、温泉地としても知られています。

・忍者豆知識 霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)
真田十勇士の一人として真田忍者です。伝承上の架空の人物ですが、モデルとなった人物として霧隠鹿右衛門がいます。
「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、明治・大正時代に刊行された立川文庫であるとされます。

真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、江戸時代の講談や小説などに登場する架空の忍者集団で、真田幸村(真田信繁)に仕えたとされています。彼らは日本の戦国時代を舞台にした物語で人気を博しました。
真田十勇士は、実在の人物ではなく、フィクションの世界で創造されたキャラクターたちです。しかし、彼らの物語は、真田幸村の伝説を彩り、多くの人々に愛されています。彼らの活躍は、小説やドラマ、映画などさまざまなメディアで描かれています。

・にんぱくの忍者道具の紹介
卍手裏剣


卍型の形をした手裏剣。

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2024年5月18日

【にんぱく忍者修行ブログ】忍者豆知識その4 -出浦盛清と割田重勝-

今日は忍者豆知識その4をお送りします。今日は真田忍者にまつわるエピソードです。

忍者豆知識 出浦盛清(いでうらもりきよ、実名・昌相(まさすけ))
出浦盛清は、真田忍者として知られています。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将として知られ、初期は武田信玄に仕え、その後真田氏に仕えた忍者であると言われています。関ヶ原合戦後は、吾妻郡代という代官になり上州吾妻郡原町(現在の東吾妻町)に住み78歳まで生きたと言われています。


配下の忍者に割田重勝がおり、彼は戦国時代まで活躍しましたが、江戸時代で忍者の仕事がなくなり、稼ぎがなく盗みに働いていたところを出浦氏配下の役人に捕まり、彼を裁くことになるエピソードがあり、盛清としては悲しいエピソードだったと言えます。

東吾妻町(ひがしあがつままち)は、日本の群馬県吾妻郡に位置する町です。この町は、豊かな自然と温泉が特徴的で、多くの観光名所があります。
草津温泉は日本有数の温泉地で東吾妻町から比較的近い場所に位置しています。
川原湯温泉は東吾妻町の近くの長野原町にある温泉地で、静かでリラックスできる環境が魅力です。
東吾妻町の温泉としては、桔梗館、東吾妻町三島の天狗の湯などがあります。
吾妻渓谷は美しい渓谷で、ハイキングや自然観察に最適です。群馬県吾妻郡東吾妻町から長野原町にまたがる吾妻川の渓谷で吾妻峡という名称で国の名勝に指定されています。
東吾妻町は、古くから多くの歴史的な建物や神社があります。また、地元の祭りや伝統行事も多く、地域の文化を感じることができます。
交通は鉄道で吾妻線が通っており、草津温泉や軽井沢などの観光地へのアクセスが便利です。
関越自動車道を利用してアクセスできます。
東吾妻町は、豊かな自然環境を活かした農産物が特産品として有名です。例えば、リンゴや野菜、こんにゃくなどが挙げられます。

・忍者豆知識 割田重勝(わりたしげかつ)
割田重勝は、真田氏に仕えた忍者です。敵方の北条氏の城・中山城に偵察に行く等様々なお城(沼田城、中山城etc)に偵察に行き戦果をあげました。また馬を盗むことを得意とし、敵陣の北条氏に行く時大豆売りを装い、敵の馬を奪って逃走する等に成功したエピソードがあります。
中之条町横尾出身であるとされます。
中山城は現在の群馬県高山村のお城で、北条氏によって築かれた城です。現在も大きな堀などの遺構が残っています。

・にんぱくの展示室の忍者道具の紹介
折り畳み十字手裏剣

折り畳んで収納可能な十字型の手裏剣です。

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2024年5月12日

忍者豆知識その3 -上田城攻防戦とにんぱくの展示物-

今日は忍者豆知識3をお届けします。今回は真田忍者と真田忍者以外の忍者の話です。

忍者豆知識・上田城攻防戦
関ヶ原の戦いの前の徳川秀忠は、真田氏と対立し真田氏の上田城を攻め落とそうとしていたが、その時に真田忍者のゲリラ戦にあい、
これにより秀忠は関ヶ原の戦いに向かうことができなくなります。

上田城(うえだじょう)は、長野県上田市にある城跡で、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた城郭です。真田昌幸が徳川氏や上杉氏から援助を受け、上田城を完成させました。
上田城は、戦国時代に信濃国(現在の長野県)を支配した小笠原氏や真田氏などの拠点として築かれました。特に真田信繁(幸村)が城主として知られ、上田城は真田氏の本拠地として栄えました。真田氏は豊臣秀吉や徳川家康といった大名と抗争を繰り広げ、上田城も幾度か攻撃を受けましたが、堅固な城郭として知られています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、徳川幕府は上田城を廃城し、その後、真田昌幸・幸村は九度山(和歌山県)への流罪に処され、上田領は家康から与えられた真田氏の長男の信之が引き継ぐことになります。
その後上田城は寛永3年(1626)に仙石忠政によって復興が始まり、櫓(やぐら)や土塀(どべい)が作られ、仙石氏や松平氏によって復興工事されました。
明治時代になると上田城は櫓などを除き解体され、現在では上田城址公園として整備され、多くの観光客や地元の人々に親しまれています。

忍者豆知識・厳島(いつくしま)の戦い・毛利元就・江良房栄・陶晴賢
厳島の戦いは毛利元就(もうりもとなり)軍と陶晴賢(すえはるかた)軍との戦いです。毛利氏と陶氏の戦いである厳島の戦いでも、情報操作の忍者が活動していました。

毛利氏側は偽文書を作り、陶氏の配下江良房栄が毛利氏と内通しているという情報を流し、
陶氏はそれを信じ配下の江良房栄(えらふさひで)を殺害してしまいます。陶氏がそれを信じ込んだのは過去に主君大内義隆を暗殺を企てていたからだとされます。
その後毛利氏は数々の情報操作をし、援軍である村上水軍を呼ぶため時間を稼ぎ、合流後一気に形勢逆転し、戦いに勝利したと言われます。
厳島は、広島県廿日市市(はつかいちし)にある島のことを指します。厳島の中心は、厳島(いつくしま)神社で、広島県廿日市市の宮島(みやじま)にあります。
厳島神社は、古くから島全体が神聖な場所とされ、島自体が神として崇められてきました。島内には厳島神社をはじめ、多くの神社や建造物があり、美しい自然と歴史的な価値が融合したスポットとして有名です。
特に有名なのが、海に立つ鳥居です。この鳥居は厳島神社の大鳥居であり、潮の満ち引きによって時折水中に姿を現します。この光景は日本三景の一つにも数えられています。
厳島はまた、日本三景の一つとしても知られています。江戸時代には多くの文人や歌人に愛され、多くの文学作品にも登場します。現在でも多くの観光客が訪れ、その風光明媚な景観や歴史的価値を楽しんでいます。

・にんぱく展示室の忍者道具紹介コーナー

このコーナーではにんぱくの忍者道具の紹介をしていきます。


三光手裏剣の写真です。見てわかりますが中央が円形で三方向に菱形の突起がついており、その形状が独特であることが特徴です。

手裏剣の形は、一般的には細長い四角形や六角形をしており、中央に穴が開いています。これは、手に持った際に指が通るためのもので、手裏剣を安定して投げる際に役立ちます。手裏剣の先端は尖っており、時には複数の刃が付いていることもあります。また、手裏剣には大小さまざまな種類があり、用途や使用者の好みによって異なる形状や大きさが存在します。

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2024年5月10日

現在でも通じる忍術~水で消えない炎編~

NINJA

忍者は暗闇や雨の日でも活動しなければなりませんでした。特に雨の日の夜は人目につきにくく、行動するには都合が良い環境でした。しかし、いくら修行を積んだ忍者と言えど、月の光さえない闇夜の雨の日に、何の明りもなく行動することは難しかったのでしょう。

現在に伝わる様々な忍術書には、雨でも消えない松明や、火種がない時でも炎がつく灯について記されています。

・・・略・・・明治35年発行の『最新秘法奇術』では100種類ほどの「役に立つ術」が列挙されている。最初の項目が「あらかじめ地震を知る方法」もはやこの時点でこの本の信頼度は極めて低いが・・・略・・・読んでいてばかばかしくなる・・・略・・・そんな「最新秘法」の数々を我慢して読み続けると、終盤にきて「水に入りても消えざる玉火を造る術」というものが出てくる。樟脳300グラム、硫黄11.25グラム、塩硝1.875グラム。これを練って火を灯せば、雨でも消えないという。・・・略・・・でたらめかと思ったが、文化2年(1805年)『佐久間流松明薬能書』という写本の「雨松明」と、この「造る術」がほぼ一致していることが分かった。佐久間流においいては、材料は同じだが、「造る術」より全て少量で、竹に詰めてから取り出すとなっている。

三重大学国際忍者研究センター「忍者学研究」から引用

以上の文章にあるやり方で作れば、水で消えない火がつくれるらしいです。
実際にやってみたいところですが、火を扱う以上、それなりの知識と場所がないと危ないので、今回は紹介だけにさせていただきたいと思います。

材料にあった、樟脳、硫黄、塩硝とはどのような性質を持つものなのでしょうか。

樟脳とは

By Salil Kumar Mukherjee – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106488766

独特の香りがあり、防虫剤でよく知られています。半透明の結晶で、セルロイドや無煙火薬などの原料にもなります。

硫黄とは

Rob Lavinsky, iRocks.com – CC-BY-SA-3.0, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10429628

火山地域で産する自然硫黄や,硫化鉄鉱鉱床を形成する黄鉄鉱から得られます。固形時は淡黄色で無味無臭。黒色火薬の原料になります。

塩硝とは

w:User:Walkerma, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=184556

硝石のことで、硫黄と調合して鉄砲火薬を製造する爆薬原料とされています。

まとめ

材料の性質を考えると、煙の出ない雨でも消えない火薬がつくれる・・・のではないかと思います。
通常、火は燃え続けるためには、空気中の酸素を必要とします。しかし、火薬は(種類にもよりますが)水中で空気に触れることができなくても火薬から酸素が供給され、燃え続けることができます。

つまり松明の燃料を火薬にすれば、雨でも消えない松明がつくれる、ということでしょうか?
うーん、実際に検証してみたいですね。

材料と作り方まで分かっていて、検証できないのは消化不足ですが、今回の記事はここまでです。

皆さんがこの記事を参考に、消えない火を作るのはご自由ですが、絶対に事故が起こらないように専門家のもとで行なってください。
当記事を参考にしたことによって何らかの事故が発生した場合の責任は負いません。
火の用心!焼き肉焼いても家焼くな!(年代がばれますね)

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2024年5月7日

現在でも通じる忍術~あぶり出し編~

NINJA

あぶり出しとは、インクが乾くと書いた文字が見えなくなり、火で炙ると文字が見えるというものです。
忍者が情報を伝えるのに用いた手段として、よく知られています。

今回は、あぶり出しを実践したいと思います。

あぶり出しに使われたインクの材料は、ミカン汁、大豆すりつぶし汁、ドブロクなどがあります。
今回はミカンの汁を使っていきたいと思います。

用意するもの

  • ミカン
  • 半紙

1.ミカンの果実を絞ってミカン汁を容器に入れます

2. 筆にミカン汁を含ませて文字を書きます。

今年は辰年なので龍の絵と「りゅう」の文字を書こうと思ったのですが、いろいろ書いてしまいました。

ここでひとつポイントなのですが、ミカン汁をべっとりと筆につけると、果肉の色味がついてしまい、炙り出す前から何が書いてあるか分かってしまいます。筆には、絞ったミカン汁の上澄みだけ浸すようにすると、透明インクとして使えます。多すぎると滲んでしまうので、ちょんちょんと筆先を浸すようにすると良いです。書いたら乾くまで待ちます。

ミカン汁の色がついてしまった部分以外は、何が書いてあるのか分からなくなりましたね。

3. 火で炙ります

手元にティーキャンドルがあったので、今回はこのキャンドルで炙りました。紙が焦げるか焦げないかくらいの距離を見極めてやると文字だけ出てきます。炎の真上に、ミカン汁で書いた場所を持ってくるとすぐに色がつき始めます。

現代でも秘密の文章を交わす際に、ぜひあぶり出しを試してみてください。
ちなみに、火ではなく水を使う水出しもありますが、それはまた今度やってみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!

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2024年5月6日

忍者豆知識その2 -忍者について-

忍者豆知識・石川五右衛門
石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊で、もともと伊賀の忍者でしたが、盗賊になったと言われます。
最終的には捕まり釜茹での刑に処せさられたエピソードが有名です。


都を荒らし回っていたところを、豊臣秀吉の軍に捉えられ、京都三条河原で処刑されました。
三条大橋は、京都市にある三条通の橋で一級河川の鴨川に架かっていて、この近隣に三条河原があります。
京都では、処刑や罪人の晒し首などが行われることがありました。その際、多くの場合、人々の目に触れやすい河原地域や市中の広場で行われることが一般的でした。また、戦国時代や安土桃山時代には、京都市内での処刑や刑罰が行われることもありました。特に織田信長や豊臣秀吉の統一政策の下、治安の強化や秩序維持のために厳しい処罰が行われることがありました。

忍者豆知識・雑賀孫市(さいかまごいち)
雑賀孫市は鉄砲を扱った武将で忍者に鉄砲を扱わせたとして知られていて、石山本願寺で本願寺側に属し織田信長と戦いました。
本願寺に近い中津川で戦い信長を追い払いましたが、信長に孫市の本拠地紀州を攻め落とされ、信長の配下となりました。


両者の戦いの舞台となった中津川は、木曽川水系の一級河川で岐阜県中津川市に流れています。岐阜県中津川市を流れる川で、長良川の支流です。中津川市を流れる部分を指すことが一般的ですが、長良川支流としての中津川は岐阜県を流れる広い範囲を含むこともあります。
中津川は、美しい自然景観や清流が広がることで知られており、四季折々の風景が楽しめる地域です。特に桜の名所として有名であり、春には桜並木が美しい景色を作り出します。また、川沿いには散策路や公園も整備されており、散策やピクニックに訪れる人々で賑わいます。
中津川市は、古くから交通の要所として栄え、中津川をはじめとする河川や街道が交わる地域として発展してきました。現在でも市街地には歴史的な建造物や史跡が残り、その歴史的な雰囲気を感じることができます。
紀州とは、主に和歌山県を指す呼称として使われることが一般的です。和歌山県は、かつて紀伊国(きいのくに)とも呼ばれ、そのため「紀州」という呼び名が残っています。
紀州は、日本の南部に位置し、紀伊半島の大部分を占めています。古くは山岳地帯が多く、交通が不便であったため、独自の文化や歴史が育まれました。また、紀伊水道や太平洋に面しており、豊かな海の幸も楽しむことができます。

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2024年5月4日

忍者豆知識その1 -忍者について-

忍者豆知識・津軽地方(青森県)の忍者について
津軽為信は、出自は諸説ありますが、南部氏の史料によると大浦氏の養子だったとされます。弘前藩と南部藩(現在の青森県)で南部氏や浪岡北畠氏と争ったと言われます。
その際に為信は忍者を重用して浪岡城を陥落したと言われています。

忍者豆知識・川中島の合戦の忍者
上杉謙信と武田信玄が戦った川中島の合戦では、両軍とも忍者がいて戦いを決していました。

忍者豆知識・関ヶ原の戦いにおける忍者
関ヶ原の戦いにおいては、東軍・西軍のともに戦いに忍者がいました。忍者の鉄砲隊がいたり、情報操作をしていたものもいました。
鉄砲が日本に伝わったのは、戦国時代中期から後期であり、この時期は忍者が活躍した時代でもあります。忍者はその活動の中で、鉄砲を使用することがあったと考えられています。
忍者が鉄砲を使う場面は、特に城攻めや襲撃などでの戦闘において見られました。鉄砲は当時の日本では比較的新しい武器であり、短時間で訓練すれば使えることから、忍者が短期間で鉄砲の扱いを覚え、戦闘での優位性を確保するのに役立ったと考えられています。
また、忍者は情報収集や諜報活動にも従事しており、敵陣に潜入する際には、鉄砲を使って敵の動きを封じる、あるいは混乱を引き起こすといった戦術を用いたとされています。
ただし、忍者が鉄砲をどれだけ広く使っていたかについては議論の余地があります。

忍者豆知識・百地丹波守(ももちたんばのかみ)
百地丹波守(ももちたんばのかみ)は天正伊賀の乱の時に活躍した忍者(上忍)です。
織田信長の息子織田信雄に伊賀を攻められたときはそれを撃退しましたが、その後の織田信長の軍にはなすすべがなく消息不明となりました。

忍者には上忍・中忍・下忍の制度があり、そのうち上忍には服部半蔵、百地丹波守、藤林長門守がいます。
上忍・中忍・下忍は、忍者が所属する組織内での階級制度を表す言葉です。忍者は、忍術や諜報活動などを通じて主君や雇い主のために働くことが多く、その組織内での序列や役割分担を示すために使われました。
上忍は、組織内での上級の忍者を指します。通常は指導的な役割を担い、忍術や指揮能力に優れた者が任命されることが多いです。上忍は、組織の中心的な存在であり、重要な任務を担当することが多いです。
中忍は、組織内での中間クラスの忍者を指します。一般的には、上忍の指示を受けて任務を遂行することが多く、また、新人の指導や下忍の監督なども担当することがあります。
下忍は、組織内での初級の忍者を指します。下忍は、主に基本的な任務や補助的な役割を担当し、経験を積んで成長していく段階です。また、下忍は上級忍者からの指導を受けることが多いです。

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2024年5月1日

現在でも通じる忍術~方言編~

NINJA

現代の日本には標準語があり、標準語が通用しない地域はほとんどありません。普段話す言葉も、標準語と呼べる言葉を話す人がほとんどです。
しかし、沖縄や東北地域のなどの方言は、その土地に住んでいないと理解するのが難しいところもあります。
沖縄方言や津軽弁などを、ご年配の方々が話している様子を見ると、何を話しているのか、私はさっぱり理解できません。
現代の私たちは、分からない言葉についてインターネットで調べることができますが、戦国〜江戸時代の忍者はそうではありませんでした。

当時の忍者にとって、方言は聳え立つ壁でした。
忍者は任務を任されたら、任務地の言葉や風習を時間をかけて学びました。外から来たあやしい人間だと思われないようにするためです。
あやしい人だと感づかれたら、情報が得られません。

実際にあった、失敗例をご紹介します。

1673年の島原の乱

この時も忍者は暗躍していました。幕府軍の総大将ろして板倉重昌が派遣されましたが戦死し、
変わって老中松平信綱が赴きました。その際に甲賀者10人が同行し、
一揆軍がたてこもる原城内部の状況を探ることを命じられました。

近江国甲賀から来た陰形の者が城の中に入ろうと、毎晩忍び寄りましたが、城中の人々は「西国語」を話し、
さらにはキリスト教の文言を唱えているので理解することができませんでした。
そしてある夜、甲賀者が城内に忍び込もうとしたところを見つかってしまい、石をさんざん投げ釣られたとのことです。

甲賀者は九州弁が分からなかったので、任務に失敗してしまいました。

現代において言葉が分からず、命の危機に陥るということは、日本国内で過ごしていればほとんどないでしょう。
国内出張ならば、事前にその地域で話している方言を勉強しようと思う方は少数派なのではないでしょうか。

しかし、日本以外の国へ急遽行くことになった場合は、時間の許す限り、その国のことを調べますよね。
幸い、今の私たちにはインターネットという便利なものがあります。言語も機械翻訳に頼ることができます。
しかし、やはり現地の人々の使う言葉や慣習、仕草を覚えれば、覚えない人より、覚えた人のほうが豊富な情報を得られます。
私たちは忍者ではないので、完璧に現地に溶け込むことは必要ありませんが、できるだけその地域に馴染もうとする努力が必要ですね。
そなえあれば憂いなし、郷に入れば郷にしたがえ、の精神で乗り来ましょう!

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2024年4月19日

現在でも通じる忍術~潜在能力編~

NINJA

人間には五感があり、忍術では「第六感」をも養えるとされています。人間の五感とは次の通りです。・視覚 目で見ること・聴覚 耳で聞くこと・臭覚 鼻で嗅ぐこと・味覚 舌で味わうこと・触覚 皮膚に触れる感覚
では第六感とは何でしょうか?一般的に第六感と言えば、霊が見える力、直感力など、五感以外の感覚を指すことが多いでしょう。

私が参考にしている本「忍者学研究」には忍者が考える第六感については明記されていませんが、戦国時代~江戸時代の人々は、私たち現代人のような科学的思考・常識は持っていなかったと思われます。現代人から見れば科学的根拠のない迷信のようなものを、本気で信じていた人もいたはずです。現代でも、科学が万能かと言われればそうではありませんが、私たちはそれが一番信用に値するものだと思っています。
当時の人々にとって、第六感、霊や神仏はもっと身近なものであり、五感と同じくらい第六感も大切な感覚の一つだったのでしょう。

第六感の前に、当時の忍者が五感を鍛えた方法について書いていきたいと思います。

視覚

まずは視覚の向上についてです。「明眼之法」という修行は、遠近、左右、上下、八方、周囲を見ることを繰り返し行い、目の働きを円滑にするものです。具体的なやり方については下記の通りです。


1. 目の前に立てた親指を見て、次に遠くの山を見る。
2. 指を立てた手を自分の周りに動かし、あらゆる方向に位置する指を見ることを反復する。


こうすることで、眼筋や毛様体の働きを促し、目の遠近調整機能を高めて視野を広げる効果が期待されます。現代では仮性近視の方にも効果があるそうです。


暗視能力を向上する修行もあります。「闇夜之習い」と称する様々な技術も伝えられてますが、多くは非科学的なものが多いそうです。

糸でぶら下げた穴開き銭を揺らし、穴を目で追ったり、棒を穴に通したりして胴体視力を養う修行や、頭を動かさずに障子の桟を上下左右に素早く目で追う修行もあります。温めた両手をまぶたに軽く当てて、眼球を上下左右に動かしたあと、目の周りを指で、全体を手のひらで押さえるものもあります。

※現代では決して行ってはいけない修行もあります。やっていけないと言われるとやってみたくなる方もいるのではないかと思いますが、この方法は本当に危険なのでたらないでください。危険な修行は「灯火目付け」と呼ばれる修行で、そうろくの火を長時間注視したり、白昼の太陽を見たりするものです。最悪の場合失明します。

聴覚

聴覚の向上には、針を砥石などの硬い物に落とした音を聞き取り、数を数える「小音聞き」という修行があります。最初は修行者自身で針を落とし、慣れてきたら他の者に遠くで針を落としてもらいます。この修行を極めれれば、小さな音や声から不穏な状況を察して危険を回避したり、大勢の会話から特定の人物の声を聞き取ったりできるようになります。

臭覚、味覚、触覚を鍛える修行もあります。

今回の記事はここまでです。五感を鍛えることは、現代社会でも役に立つと思います。皆さんのお役に立てれば嬉しいです。

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