NINJA
戦国時代は忍者がもっとも活躍した時代と言えます。乱世の時代だからこそ、忍者のような存在は各地の大名にとって重要な存在でした。この記事では各地で、忍者がどのような呼び方をされていたのかご紹介します。
忍者という呼び方
忍者という呼び方が一般に広く定着したのは、昭和30年代くらいとされています。主に小説などを通して広まりました。
戦国から江戸にかけて、忍者は地域ごとに、さまざまな呼び方がありました。
東北
・草(くさ)
・早道之者(はやみちのもの)
・間盗役(かんとうやく)
・黒脛巾組(くろはばきぐみ)
戦国時代
主に忍びは「草」と呼ばれ、諜報活動するだけでなく、草むらに潜んで待ち伏せする作戦をとるような、戦闘集団でもありました。
津軽地方(青森西部)の津軽氏には、甲賀流を源流とする忍びがいて、「早道之者」と呼ばれていました。南部地方(青森・岩手)の南部氏には「間盗役」と呼ばれる忍び集団がいました。
仙台(宮城)の伊達氏は、「黒脛巾組」と呼ばれる忍び集団を抱えて情報種集を行なっていました。
関東
・乱波(らっぱ)
・草(くさ)
・かまり
・風間(かざま・風魔とも)
・隠密(おんみつ)
戦国時代
主に忍びは「乱波」と呼ばれていたほか、「草」「かまり」などよも呼ばれていました。
相模(神奈川)の北条氏は、「風間」という忍びの集団を抱えていたとされています。そのリーダーを風魔小太郎(こたろう)と呼んでいました。
江戸時代
伊賀忍者、甲賀忍者を構成員とし、「隠密」と呼ばれる公設機関が作られました。8代目将軍吉宗の時代には、諜報機関として、御庭番が設けられ、隠密として捜索活動を行っていました。
甲信越
・透波(すっぱ)
・かまり
・夜盗組(やとうぐみ)
・伏齅(ふしかぎ)
・三ツ者(みつもの)
戦国時代
信州(長野)・甲斐(山梨)には透波、かまりなどと呼ばれる忍び集団がいました。
越後(新潟)の上杉氏は、夜盗組や伏齅と呼ばれる忍びを使っていました。川中島の戦いで活躍したと言われています。
甲斐の武田氏は、三ツ者という忍びや、信濃からの透波を使っていたとされています。
北陸
・偸組(ぬすみぐみ)
戦国時代
加賀(石川)の前田家は偸組と呼ばれる忍び集団を使っていました。
中部
・饗談(きょうだん)
戦国時代
尾張(愛知)の織田氏には、饗談と呼ばれる忍びの集団がいたとされています。
近畿
・伊賀者
・甲賀者
・奪口(だっこう)
・根来衆(ねごろしゅう)
・雑賀衆(さいかしゅう)
南北時代
河内(大阪)の楠木正成は、忍びの源流とされる悪党のひとりとされ、南朝側に立ってゲリラ戦を展開しました。
戦国時代
甲賀(滋賀)や伊賀(三重)の忍び集団は、周辺各地で活躍し、伊賀者・甲賀者などと呼ばれました。
河内には、楠木流が伝わり、奪口と呼ばれる忍び集団がいました。
紀伊(和歌山)には、根来寺の僧兵の根来衆や、雑賀衆と呼ばれる鉄砲で武装した集団がいました。
中国・四国
・外聞(とぎき)
・鉢屋衆(はちやしゅう)
・座頭衆(ざとうしゅう)
戦国時代
主に忍びの呼称として、外聞が使われていました。
出雲(島根)の尼子氏は、鉢屋衆と呼ばれる忍び集団を使っていました。
九州
・関やぶり
・山潜り(やまくぐり)
戦国時代
肥後(熊本)の加藤氏は、関やぶりと呼ばれる忍び集団を使っていました。
薩摩(鹿児島)の島津氏は、山潜りと呼ばれる忍び集団を使っていました。
終わりに
このブログを運営しているにんぱくには、忍者が実際に使っていた忍具が展示されています。群馬県の北西にある東吾妻町に、にんぱくはあります。吾妻地域は真田氏が支配していたころ、忍びの者として真田家に仕えていた忍者がいました。岩櫃城と言えば歴史好きの方はピンと来るかもしれません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。これからもにんぱくをよろしくお願いいたします!