2024年5月12日

忍者豆知識その3 -上田城攻防戦とにんぱくの展示物-

今日は忍者豆知識3をお届けします。今回は真田忍者と真田忍者以外の忍者の話です。

忍者豆知識・上田城攻防戦
関ヶ原の戦いの前の徳川秀忠は、真田氏と対立し真田氏の上田城を攻め落とそうとしていたが、その時に真田忍者のゲリラ戦にあい、
これにより秀忠は関ヶ原の戦いに向かうことができなくなります。

上田城(うえだじょう)は、長野県上田市にある城跡で、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた城郭です。真田昌幸が徳川氏や上杉氏から援助を受け、上田城を完成させました。
上田城は、戦国時代に信濃国(現在の長野県)を支配した小笠原氏や真田氏などの拠点として築かれました。特に真田信繁(幸村)が城主として知られ、上田城は真田氏の本拠地として栄えました。真田氏は豊臣秀吉や徳川家康といった大名と抗争を繰り広げ、上田城も幾度か攻撃を受けましたが、堅固な城郭として知られています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、徳川幕府は上田城を廃城し、その後、真田昌幸・幸村は九度山(和歌山県)への流罪に処され、上田領は家康から与えられた真田氏の長男の信之が引き継ぐことになります。
その後上田城は寛永3年(1626)に仙石忠政によって復興が始まり、櫓(やぐら)や土塀(どべい)が作られ、仙石氏や松平氏によって復興工事されました。
明治時代になると上田城は櫓などを除き解体され、現在では上田城址公園として整備され、多くの観光客や地元の人々に親しまれています。

忍者豆知識・厳島(いつくしま)の戦い・毛利元就・江良房栄・陶晴賢
厳島の戦いは毛利元就(もうりもとなり)軍と陶晴賢(すえはるかた)軍との戦いです。毛利氏と陶氏の戦いである厳島の戦いでも、情報操作の忍者が活動していました。

毛利氏側は偽文書を作り、陶氏の配下江良房栄が毛利氏と内通しているという情報を流し、
陶氏はそれを信じ配下の江良房栄(えらふさひで)を殺害してしまいます。陶氏がそれを信じ込んだのは過去に主君大内義隆を暗殺を企てていたからだとされます。
その後毛利氏は数々の情報操作をし、援軍である村上水軍を呼ぶため時間を稼ぎ、合流後一気に形勢逆転し、戦いに勝利したと言われます。
厳島は、広島県廿日市市(はつかいちし)にある島のことを指します。厳島の中心は、厳島(いつくしま)神社で、広島県廿日市市の宮島(みやじま)にあります。
厳島神社は、古くから島全体が神聖な場所とされ、島自体が神として崇められてきました。島内には厳島神社をはじめ、多くの神社や建造物があり、美しい自然と歴史的な価値が融合したスポットとして有名です。
特に有名なのが、海に立つ鳥居です。この鳥居は厳島神社の大鳥居であり、潮の満ち引きによって時折水中に姿を現します。この光景は日本三景の一つにも数えられています。
厳島はまた、日本三景の一つとしても知られています。江戸時代には多くの文人や歌人に愛され、多くの文学作品にも登場します。現在でも多くの観光客が訪れ、その風光明媚な景観や歴史的価値を楽しんでいます。

・にんぱく展示室の忍者道具紹介コーナー

このコーナーではにんぱくの忍者道具の紹介をしていきます。


三光手裏剣の写真です。見てわかりますが中央が円形で三方向に菱形の突起がついており、その形状が独特であることが特徴です。

手裏剣の形は、一般的には細長い四角形や六角形をしており、中央に穴が開いています。これは、手に持った際に指が通るためのもので、手裏剣を安定して投げる際に役立ちます。手裏剣の先端は尖っており、時には複数の刃が付いていることもあります。また、手裏剣には大小さまざまな種類があり、用途や使用者の好みによって異なる形状や大きさが存在します。

ブログ一覧へ